〝後悔先に立たず〟足利義昭の誤算
季節と時節でつづる戦国おりおり第487回
今から421年前の慶長5年7月11日(現在の暦で1600年8月19日)、石田三成が大谷吉継と佐和山城で会見。家康追討の策を練る中で、大谷吉継が石田三成に対し対徳川家康戦についての忠告を与えたという逸話が伝わっています。
今から448年前の元亀4年7月18日(現在の暦で1573年8月25日)、室町幕府第15代将軍・足利義昭が槇島城で織田信長に降る。
この日、織田信長排斥のために本願寺や毛利家・武田家・浅井家・朝倉家などを動かしていた義昭が、みずからも槇島城で反信長の兵を挙げたものの、あっという間に信長によって攻め囲まれ、降伏しました。
義昭との決裂を前提とした信長は、3月6日に義昭近臣の細川藤孝に対し「公方様の御所行、是非に及ばざる次第に候」と書き送り、公方=義昭の行いは怪しからぬと非難して世論を誘導しています。
これを受け、藤孝は義昭を見捨てて信長に味方する決意を固めました。
やがて義昭が京の二条城を家臣に任せて7月3日に宇治の槇島城へ籠もると、信長は「天下を捨て置かるるの上は、信長上洛せしめて取り静め候」(7月13日付け毛利輝元宛)と、義昭が政務を放棄したので信長がこれを代行する、と宣言して「正義は我にあり」とぶちあげます。
しかし、結果は冒頭の通りで、形式としては「信長より扱いを入れ」(『二條宴乗日記』)と信長側から講和交渉を始めた体裁をとって義昭の降伏が決まり、義昭はわずか2才の息子(義尋)を人質として提出し、槇島城を出ます。
「路次中、一揆出合い、御物以下落取云々」(『兼見卿記』)
「歴々の御上臈達、歩立(かちだち)赤足(はだし)にて、取る物も取りあえず御退座候。(中略)貧乏公方と上下指を差し嘲弄を成し、御自滅と申しながら、哀れなるありさま目も当てられず」(『信長公記』)と、槇島城を出た義昭一行は、女たちも徒歩で人目にさらされながらの惨めな落去の体で、しかも途中で一揆に荷物を奪われるという泣きっ面に蜂状態。
その様子を見た皆は「貧乏公方」と嘲り笑ったという事です。
24日、義昭が毛利家の面々に書き送った書状には「(自分の家来たちは信長の調略を受けて寝返り、自分の子もむりやり人質に取られてしまった」とあります。
家来とは三淵藤英らの事で、藤英は二条城に籠もったものの抵抗虚しく信長に降っていますが、はっきり言って槇島城の攻防にはほとんど何の関係もありません。
その藤英に責任を転嫁して自分の子供を人質に取られた事まで愚痴っているあたり、将軍の風上にもおけない印象ですが、その後河内若江の三好義継の元に一時身を寄せた義昭は、やがてその毛利を頼って中国に赴き、征夷大将軍に在職のまま鞆に落ち着きます。
彼はそこから毛利や上杉、本願寺へ檄を飛ばし、信長打倒を叫び続けるのでした。
普通は圧倒的な力量差を見せつけられ、恥をかかされたとなればどこかに隠居して生涯過ごしそうなものですが、義昭の反・信長の執念はいささかも衰えません。
「相公などを討ち奉る事いかがと申し、信長思慮し給う。後には討ち奉らざる事後悔し給いける」とは『当代記』における記述で、将軍義昭を討つのは外聞上どうかと考えて追放という措置を取った信長が、後になって殺しておけば良かったと後悔した、というのはまさにこの義昭の衰える事の無い活動に対しての偽らざる本音だったのでしょう。
事実、この教訓?を参考にした信長は、以降浅井・朝倉攻め、長島攻めと「根切り」の傾向を強めていきます。