「なぜカルトにハマってしまうのか?」対岸の火事と考えてはいけない理由【大竹稽】
「なぜカルトにハマるのか?」救済と信仰を問う【第1回】
安倍元首相銃撃事件から再び浮上した統一教会問題。いまなお収まる気配はない。宗教団体の政治との関わりや反社会的な活動の規制のあり方などをめぐってカルト規制法なるものも議論され始めている。一方で、そもそも人はなぜカルトにハマってしまうのか? この問いに向き合わねばならないだろう。そこで、「てらてつ(お寺で哲学する)」で有名な異色の哲学者・大竹稽氏が、「救済と信仰」を問いながら「カルトにハマるとは一体どういうことなのか?」について答えていく。短期集中連載(全5回)の第1回。
◆なぜわたしたちはカルトにハマってしまうのか?
あの事件以来、「カルト」問題が再浮上しました。報道される「カルト」教団の内情は、あきらかに常軌を逸しています。それにしても、明々白々に余りある異常があるにも関わらず、なぜわたしたちはカルトにハマってしまうのでしょう?
わたしはここで、この問題に挑もうと思います。
そもそも、カルトとはどのようなものでしょう?
すでに雑誌やインターネットなどで、様々な答えが提出されています。「マインドコントロール」「思考や情報のコントロール」「他教団の敵視」「教団への絶対服従」、そして「批判的思考の禁止」などが挙げられるでしょう。哲学的には、「批判的思考の禁止」はまさに息の根を止める所業です。「これは間違っていないか?」は、人間的で健やかな思考の証なのです。けれども、「間違っていないか?」と問い質されることは、カルト的教義には極めて不都合なようです。
もちろん、「『間違っていないか』と考えるな」などと禁止されはしないでしょう。禁止は反発を生みます。だから、カルトの人々は、「禁止」ではなく、他教団を攻撃するのです。この攻撃は、つまり、自分たちの正当化。この正当化によって、禁止されないままに批判的思考が禁じられてしまうのです。
しかも勧誘は、禁止ではなく解決によらねばなりません。
「あなたの苦境を救う答えがあります。教団の教えこそ、あなたが求めていた答えです」
こうして、カルトにすがるようになります。すがるようになれば、いずれカルトにハマってしまうでしょう。
「あなたが求めていた答えがここにある」
これが「カルトへの勧誘」の特徴です。答えがあるからこそ、窮地や八方塞がりから抜け出したいと請い願う人たちが、「救い」を求めて入団してしまうのです。
苦難からの脱出には、なによりもまず、苦しみの原因の理解が条件となります。わたしたちの頭にとって、「わかる」が至上命題です。したがって、「わからない」ことが不安を生み出します。
例えば、暗い道を歩かなければならない時、「この先に何があるのか?」と誰もが考えてしまうでしょう。もしわからなければ、不安になります。でも、「どこそこには何々がある」とわかれば、安心して歩けますよね。
しかし、本来の宗教にとって大事は、「わかる」よりも「わからない」。「あなたが暗闇を歩くのならば、わたしもいっしょに、手探り足探りで歩きましょう」、これが宗教の本来的メッセージなのです。
「暗い道」は辛い人生の喩えです。
「どうしてこんなに辛いのか?」「この先、何があるのか?」
カルトは答えを用意しています。どうやら、彼らは世の理の一切がわかっているようです。これこそ、わたしたちの脳が求めてやまないものです。
つまり、だれもがカルトにハマってしまう条件を備えているのです。カルト盲信は、特殊な環境にいる人だけに限られたものではありません。教育現場をご覧になってください。「わかる」ことで点数がつき、成績上位になります。仕事はどうでしょうか。「なんでわからないんだ!」と叱責されることはあっても、「なんでわかるんだ!」と目を剥かれることなど、まずないですよね。
「わからない」を無視して、「わかる」にすがる。これはカルト問題だけでなく、現代を象徴する大問題と言えるでしょう。
「なぜカルトにハマるのか?」を、対岸の火事のように扱っていては、本来の問題へと肉迫できません。テレビや新聞での識者たちの発言の多くにも、「わたしは決してハマらない」という自信が見え隠れしますが、足元をすくわれないように祈るばかりです。
「わからない」を忌避する限り、わたしたち自身にも、カルト的な教えに誘引されてしまう危険があるのです。
さて、ここでのわたしの挑戦は、全五回の連載になる予定です。
次回は、フランスを代表するノーベル賞作家、アルベール・カミュ『ペスト』のワンシーンを手掛かりにして、カルト問題を解析していこうと思います。カミュは小説家であると同時に、哲学者でもあります。哲学的著作の一つに『シーシュポスの神話』があります。そこでカミュは、わたしたち人間は、意味や目的や理由が「わからない」からこそ自由であり、創造的であることを力説しています。
カルト問題は、本来の「救済と信仰」を問うものへと進展するでしょう。そこでもやはり、「わかる」「わかっている」「わからなければ」という考え方が、「救済と信仰」から人々を遠ざけてしまっていることが明らかになると思います。さらに、宗教から疫病や戦争による分断へと考察が進むでしょう。この三つのいずれも、「いかに融和するか?」が最終的な問いかけになるはずです。そして、この問いかけへの鍵として、「身体性」が見出されていくでしょう。
どうぞご期待ください。
文:大竹稽