セックスと小さな死……私は自分の肉体に対してどう接してきたか?【神野藍】
神野藍「 私 を ほ ど く 」 〜 AV女優「渡辺まお」回顧録 〜連載第22回
早稲田大学在学中にAV女優「渡辺まお」としてデビュー。人気を一世風靡するも、大学卒業とともに現役を引退。その後、文筆家・タレント「神野藍」として活動し、注目されている。AV女優「渡辺まお」時代の「私」を、神野藍がしずかにほどきはじめた。「どうか私から目をそらさないでいてほしい・・・」赤裸々に綴る連載エッセイ第22回。
【自分の身体の所有者は私であるはずなのに】
時々思うのだ。
自分の身体の所有者は私であるはずなのに、様々な選択権は私ではなく、どこか別のところに依存していると。
先日友人の招待で現代アートの展示を訪ねたときに、衝撃的なものを目にした。それは一つの映像作品で、現実の会場で奇抜な演出があるわけでもなく、淡々と一つの映像が流れているだけなのにその作品の前で立ち止まり、目を奪われ、数分間作品の前から動けなくなってしまった。
とても不思議なことだが、映像の途中から見始めてストーリーもまだちゃんと掴めていないのにもかかわらず、「私はこの作品をちゃんと見なければいけない」と直感的に思った。その作品は百瀬文さんが制作したもので、堕胎罪の意識が残る日本人女性と中絶禁止法が成立したポーランド人女性の往復書簡を元にストーリーが構成されている。
内容としては(これはあくまで私がその作品を見た解釈ではあるが)、性別によって分かれる命に対する決断の重さや、自己の身体や人生であるはずなのに赤の他人によって蹂躙され、侵害される恐怖を描いたものだと認識している。実際に見てほしい気持ちが強いので、あまり詳細な解説は書かないが、私が作品の中で「正面から思い切り殴られた」と表現するのが正しいぐらいに衝撃を受けたシーンがある。
それは映像の中で女性がトイレに腰かけているところから始まり、水たまりに溜まった透明な水が真っ赤に変化する。その赤く染まった水を確認して女性は安堵すると共に、〈わたしは何かを殺した〉と感じてしまう。単純な事実だけ抜き出すと、自分の想定している期間の中で生理がきたと確認ができて、「今月も妊娠をしていなかった」と安心するということだが、一連の動作があまりにも〈現実〉で、そして生々しく感情が描き出されていて、感動したというよりも、そこから立ち去りたくなるほどに心が深く抉り取られたのであった。