フォーリーブス、たのきん、少年隊、光GENJI・・・ジャニー喜多川の最高傑作を決めよう(前編)【宝泉薫】
芸能史上有数のプロデューサー・ジャニー喜多川。その功績は、容易に色あせるものではない。
ただ、昨年来の理不尽で異様なバッシングにより、彼が創業したジャニーズ事務所は混乱に陥り、社名変更や社長交代などの対応を余儀なくされた。ジャニーズという文化を継承しようとするアイドルもファンもまだまだ大勢いるとはいえ、前途は多難だ。
そこで今回の企画を思いついた。60年近くにわたって数々のアイドルを世に送り出した彼の最高傑作を考えることで、その功績を振り返り、継承しようとする人たちへのエールにもできたら、という趣旨だ。長くなりそうなので、前後編の2回に分ける。まずは、1960年代から80年代についてだ。
その歴史の始まりは、62年。ジャニ―が作った少年野球チームの中の4人がミュージカル映画「ウエストサイド物語」に感動し、歌って踊って芝居のできるグループを目指したことに遡る。
野球チームの名は「ジャニーズ」で、グループ名もそのまま「ジャニーズ」に。ただ、野球チームにそう名付けたのも、4人の中のひとり、あおい輝彦だった。ジャニーの死に際し、あおいがスポーツ紙に寄せた手記によれば、
「ジャニーさんが監督なんだし、ジャニーズにしましょうよ」
と、提案したという。その手記のなかで、彼はグループが成功した理由についても語っている。
「そうそう、僕らがデビューする直前に、日本テレビ系『味の素ホイホイ・ミュージック・スクール』で木の実ナナさんのバックダンサーとしてシルエットで出演したこともあった。シルエットだから顔も分からないし、まだ男子が踊ることが珍しい時代でしたから『誰だ?』と問い合わせが殺到して、火が付いたんです」
つまり、その後のジャニーズアイドルたちの原型というべき魅力が彼らによって世にアピールされたのだ。
とはいえ、その活動は約5年半で終わった。米国進出も果たしたものの、これが中途半端なところで頓挫。それゆえ、処女作が最高傑作という、ありがちなことは起きなかった。
あおいも、こんな振り返り方をしている。
「ジャニーズワールドは立派な巨木に成長しましたが、最初の小さな種になれたことを誇りに思っています」
もっとも、これは謙遜まじりの過小評価だろう。彼らこそ、ジャニーズという木に咲いた最初の花だからだ。
そして、彼らが解散した翌年、フォーリーブスがデビューする。結成からの活動期間は12年に及び「NHK紅白歌合戦」に7年連続で出場するなど、大輪の花を咲かせた。
青春ならではの切迫した美学を歌った「急げ!若者」グローバル志向の「地球はひとつ」ゴムバンドを使った奇抜な振り付けで知られる「ブルドッグ」水商売を題材にした女歌の「踊り子」など、作風も幅広い。また、先輩アイドルのバックダンサーから始めるという、ジュニアシステムから生まれた最初のグループであり、ジャニーズ系のお家芸というべきバック転を初めて披露したのも、このグループの北公次だ。
そんな北は後年、暴露本「光GENJIへ」を書き、現在までいたるジャニーズバッシングの種を蒔いてしまうことに。ただ、別稿(「死人に口なし」でジャニーズ事務所を豊臣家や大日本帝国、安倍晋三にしてはいけない理由)で触れたように、あそこで語られた内容についてはかなり盛られている可能性も否めない。したがって、慎重に扱う必要があるが、北がジャニーに気に入られていたことは間違いないだろう。