文化庁調査発表。“日本語の乱れ”の張本人はオールドメディアではないか?「必ずや名を正さんか」【呉智英】
『言葉につける薬』より
今月、文化庁が「国語に関する世論調査」の結果を公表。テレビ、新聞の報道は相変わらずである。その調査結果をなぞりながら、辞書に載っていない新語や、意味の取り違いをあげつらい、活字離れとも関連づけて現代人が“日本語の乱れ”にあると言いたいようだ。しかし、呉智英氏が30年以上前に著書『言葉につける薬』(ベスト新書)で指摘した日本語の乱れは、今に始まったことではない。氏が鋭く批判したのは、社会全体、とりわけ言論を担うべき大手新聞までもが陥っている言葉の本質的な混乱だった。
■不良少年の言葉は乱れていない?
日本語が乱れている。
ほとんど毎日のように、あらゆるところでそう語られている。新聞の投書欄で、雑誌のエッセーで、隣人や同僚との世間話で、学校や職場の訓辞で、あるいは面白おかしく、あるいは深刻そうに、日本語の乱れが話題になる。そして、その原因はおおむね若い者の活字離れに求められ、一流の新聞・雑誌、教養書の正しい日本語に学ぶべきだといった結論でしめくくられる。
これは本当だろうか。
日本語が乱れている。確かに、私もそう思う。しかし、それは口語表現の、とりわけ俗語・卑語が乱暴であることとは関係がない。俗語・卑語は乱暴であるからこそ俗語・卑語なのであって、俗語・卑語が上品であったらそれこそ話にならない。スケバンの少女が「バカヤロー、てめぇの金玉たたきつぶすぞ」と叫んだって、スケバンなのだから当然である。ここには少しの日本語の乱れもない。文法的にも合っている。
私は“理解ある教育者”よろしく、スケバンや不良少年の味方をしているわけではない。学校や社会から落ちこぼれた彼らが俗語・卑語しか使わなくても何の不思議もない、と言っているだけである。俗語・卑語とは、そういう言葉なのだ。だが、もちろん、彼らが乱れた日本語を使うこともある。
以前、不良少年たちを好意的に描いたマンガで、こんなシーンを見たことがある。主人公たちのグループが別のグループと抗争になる。木刀がうなり、怒声が飛び交う。
「こンのヤロー」。俗語だからこれは問題ない。 「ダチのかたきだ」。卑語だからこれも問題ない。 「このサンピン!」。ん、サンピン? 三両一人扶持が現代の高校生に何の関係があるのか。まさか、相手が真剣ではなく木刀を構えたので、お前のような三両一人扶持の貧乏な下級武士は木刀しか買えないのか、と嘲罵したわけではなかろう。おそらく、この作者も、作者がモデルにした不良少年たちも、テレビの時代劇で知った「サンピン」を「バカヤロー」の高級表現だと思い、得意になって使ったのだ。
恥ずかしい奴らだと、私は思った。ここにあるのは活字離れではない。中途半端な活字憧憬である。斎藤月岑の『武江年表』ではなく、テレビのつまらぬ時代劇でさえ自分たちより高級だと思う教養願望である。不良少年の風上にも置けない連中だ。このままではろくな不良にはならぬ。とっととガリ勉して優等生にでもなっちまえ。そう私は思った。
もとより、日本語が乱れているのは、不良少年たちだけのことではない。彼らとは対極の立場にいるはずの新聞・雑誌の執筆者たちもそうである。