「どうしてここまで陰謀論が蔓延るのか」ネットリンチは生贄の儀式【仲正昌樹】 |BEST TiMES(ベストタイムズ)

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「どうしてここまで陰謀論が蔓延るのか」ネットリンチは生贄の儀式【仲正昌樹】

立憲民主党代表・野田佳彦

 

 総選挙になって、統一教会が日本のディープ・ステイトだというネットを中心とした陰謀論は少し収まるかと思っていたら、反統一のジャーナリストとして知られる有田芳生氏の選挙の応援に立った立憲民主党の野田佳彦代表が、統一教会問題を自民党の裏金問題と結び付けたうえ、統一教会を自民党の裏金政治を支える裏の組織と、陰謀論丸出しの発言をした。「統一教会=自民党」が日本の影の支配者という陰謀論が、野党の政権奪取戦略の要になってしまった。どうしてここまで陰謀論が蔓延るのか。

 解散命令請求を受け、自民党やいくつもの地方自治体から縁切り宣言されており、信者数数万人にすぎない統一教会がディープ・ステイトだという設定はかなり無理があるのだが、マスコミや多くのネット民は、理屈や証拠とは関係なく、陰謀論的なネタに戻っていく――統一教会をめぐる数々の勘違いについては、BEST TIMESに掲載されたいくつかの拙稿、及びそれらを改稿のうえ収録した拙著『ネットリンチが当たり前の社会はどうなるか』(KKベストセラーズ)で論じたので、ここでは省略する。

 

仲正昌樹著『ネットリンチが当たり前の社会はどうなるか』(KKベストセラーズ)

 

 いつから日本人はこんな陰謀論体質になってしまったのか、選挙まで陰謀論中心に動くようになったのはあまりにひどくないか、トランプのアメリカを笑えないではないか、などと思っていたところ、宮台真司氏から近著『聖と俗』(KKベストセラーズ)を贈って頂き、また同氏がレギュラーになっている深堀TVhttps://www.youtube.com/watch?v=jM6OAH4JqF4)にゲストとして呼んでもらって話をしている内に、陰謀論の蔓延は、「聖/俗」の転換、生贄をめぐる問題と関係しているのではないか、という気がしてきた。

 日常という意味での「俗」から非日常という意味での「聖」への転換が一定の期間を置いて生じることが、人間社会を維持していくうえで不可欠であることはデュルケイム(一八五八-一九一七)の『宗教生活の原初形態』(一九一二)以来、多くの宗教人類学者、思想家によって主張されてきた。バタイユの説明だと、人間は他の動物と違って、その場での欲求充足を抑制して、労働し、富や知識を蓄えるが、ずっと労働し続けるのは無理なので、どこかで貯め込んだものを一挙に「蕩尽」しないといけない。日々の労働が「俗」とすれば、祭り等での「蕩尽」が「聖」性と結び付く。

 原初的な社会で、「聖なる空間」を現出するための宗教的な儀礼に際しては、それまで蓄えられてきた富、あるいはその象徴が「犠牲sacrifice」として捧げられた――〈sacrifice〉の語源のラテン語〈sacrificium〉は、「聖なる sacer」+「作る facere」。

 近代化された宗教でも、「聖なるもの」に近付くため、何らかの「犠牲」が捧げられることが多い。バタイユの議論によると、古代や未開社会の宗教は定期的に「聖なるもの」を現出させる儀式を行ってきたが、世俗化が進んだ近代社会は、「聖なるもの」への正規なアクセスを失っているので、時々、突発的な爆発が起こる。異常な犯罪とか、革命的暴力がそれに当たる――栗本慎一郎(一九四一- )の『パンツをはいたサル』(一九八一)は、そうした視点からの現代社会分析である。

 「犠牲」に捧げられる対象は、共同体の罪あるいは穢れを背負っていると見なされる。特定の宗教の教義を前提にしないで考える場合、「罪」あるいは「穢れ」の実態は何かについてはいろいろ解釈の余地がある。バタイユ的には、蓄積に向けての労働とそのための規律によって共同体内に溜まったストレス、エネルギーの流れの淀みということになるのだろうし、共同体の結束力の乱れとか活気のなさとかの象徴とか寓意と見ることもできよう。

 

ジョルジュ・バタイユ(1897ー1962)。フランスの哲学者、思想家。

 

 現在の日本で、「政治」を中心に何かが淀んでいて、国全体が停滞している、という印象を抱いている人は少なくないだろう。「政治」の本質が「まつりごと(政)」だとすると、何らかの形で、「穢れ」を祓う聖なる儀式が必要になる。「右」にとっての穢れは「左」、「左」にとっての「穢れ」は「左」だが、二つのイメージが正面から対立すれば、共同体感情と強く結び付いた「右」の方が有利だろう。

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仲正 昌樹

なかまさ まさき

1963年、広島県生まれ。東京大学総合文化研究科地域文化研究専攻博士課程修了(学術博士)。現在、金沢大学法学類教授。専門は、法哲学、政治思想史、ドイツ文学。古典を最も分かりやすく読み解くことで定評がある。また、近年は『Pure Nation』(あごうさとし構成・演出)でドラマトゥルクを担当し、自ら役者を演じるなど、現代思想の芸術への応用の試みにも関わっている。最近の主な著書に、『現代哲学の最前線』『悪と全体主義——ハンナ・アーレントから考える』(NHK出版新書)、『ヘーゲルを超えるヘーゲル』『ハイデガー哲学入門——『存在と時間』を読む』(講談社現代新書)、『現代思想の名著30』(ちくま新書)、『マルクス入門講義』『ドゥルーズ+ガタリ〈アンチ・オイディプス〉入門講義』『ハンナ・アーレント「人間の条件」入門講義』(作品社)、『思想家ドラッカーを読む——リベラルと保守のあいだで』(NTT出版)ほか多数。

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