柏木陽介の未来日記① ワールドカップ出場
「チャンスは3回」
僕の“未来日記”を書く際、もっとも実現したいことといえば「ワールドカップ出場」だ。
もちろん、浦和レッズで今年こそ優勝したいし、将来的にACL(アジアチャンピオンズリーグ)を制覇したいとも思っている。
でも、僕にとって日本代表を目指すことは、プロサッカー選手・柏木陽介として子どもの頃から絶対的なものだった。はっきり言えば、ワールドカップに出ることができればサッカーを辞めてもいいと言えるくらい強い憧れがあるのだ。
そして現在25歳の僕にとって残されたチャンスは3回――そう思っている。
26歳になる来年のブラジル大会、30歳のロシア大会、そして34歳で迎える2022年カタール大会がラストチャンスで計3回だ。
では、その実現のためにどうすればいいのか。
実はここ数カ月はそれに対して本当に真剣に向き合った日々だった。
思いがけない「恩師」からの叱責もあり、いままでの自分のサッカーへの取り組みの甘さを痛感したとも言える。「自分の未来を書く」というこのコラムを書くことになったのが、ちょうど同じタイミングだったから、ちょっと運命的にさえ感じた。
「恩師」になにを言われて、どういうことを感じ、何を考えたのか……ということを書く前に、それに密接に関わる自分のサッカー人生を簡単に振り返ってみたい。
「とんとん拍子のち……」
ワールドカップの憧れを抱いたのは2002年の日韓ワールドカップの時。当時僕は中学2年生で、ずっとテレビで観ていた。
本当に夢中になった。
あの頃から本格的に「日本代表でプレーしたい!」と思うようになった。というより、ただの“憧れ”ではなく“目標”へと変わっていった。当時は恥ずかしくて口に出して言えなかったけれど、そこから、プロになりたい、代表に入りたい、ワールドカップに出たい、という気持ちが出てきた。
強豪チームでもないある意味で平凡な中学校でサッカーやっていたから「プロ選手になる」ことは現実的な目標ではなかったけれど、うまくなりたいとか、そういう気持ちはすごく強かった。その気持ちの表われとして、ほんとうによく練習していた。
毎朝7時くらいに家を出て、7時半くらいからチームメイトとフルコートで5対5などをする。昼休みもすぐに校庭に出てフルコートのゲームをして、放課後はサッカー部の練習。
毎日3部練習していた感じだった。よく考えてみると、当時の僕って、すごく汗臭かっただろうな(笑)。
とにかく、それほど練習していたし、それが苦じゃなかった。暗くなってもずーっとボールを蹴っていた。サッカーが最高の遊びだったから。
それから、サンフレッチェ広島ユースへ入ってからもサッカー三昧の日々で、トップチームに昇格してプロになることができて、年代別の代表チームにもコンスタントに呼ばれて……。
自分でもびっくりするくらいとんとん拍子にいった。
でも、当然だけどそんなに甘くはなかった。
というより、自業自得ともいえる行動で自ら目の前に大きな壁を作ってしまった。
プロになって3年目のシーズンが終わり20歳を迎えると、オフにちょっとハメを外してしまい、体重が8キロくらい増えていた。食生活の乱れや、練習もなあなあで取り組んでいたんだろうと思う。
最悪なことには、そのまま練習をしていてアキレス腱痛になってしまった。ちやほやされて、成人になりお酒を飲めるようになって……ハイ、最低でした。
正直、あの頃の自分は調子に乗っていたと思う。
そんななか、チームもJ2に落ちてしまい、翌年は僕自身が怪我でほとんど試合に出られなかった。北京オリンピック本選の代表にも漏れてしまい……。この頃は、結構つらかった記憶がある。
その一方でナニクソって気持ちにもなれた。反骨心を持つことで、次の年(2009年)はチームとしてJ1で4位。個人的にも8得点8アシストと自己最高記録を出せてすごく調子が良かった。
そのおかげか、僕に夢のワールドカップへの最初のチャンスが舞い込んだ。南アフリカ大会まであと6カ月というタイミング。1月6日のイエメン戦に若手主体のメンバーとはいえ召集され、ついに日本代表デビューを果たすことができたのだ。
ちょっと長くなってしまったから、今回はここまで。
次回、日本代表へのチャンスと自分自身に向き合うきっかけとなった「恩師」の言葉を紹介したい。
では2週間後。
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