第48回:「旅行一週間前」(後編)
<第48回>
9月×日
【「旅行一週間前」(後編)】
(前回からの続き。「旅行直前はダウナー」「いざ旅行に行っちゃえばアッパー」になってしまうワクサカさん。そんなワクサカさんの知り合いに、そのスパイラルにはまりすぎて、最後は自身を崩壊させてしまった男がいるという…)
宮里くんという友人がいる。
彼は、僕と同じく旅が大好きだが、旅の直前には必ず重度の憂鬱感に襲われる人間だった。
しかし、僕と比べて彼はずいぶんと旅の経験があり、かなり旅慣れている人物であった。
彼の、旅に対するアドバイスはいつも的確だった。
「耳かきは海外では絶対に手に入らないので、持っていくが吉」
「靴はいつでも捨てられるようなものを履いていけ」
「海外は危険なイメージがあるが、実際危ないのはほとんど都市部。なるべく都市部での滞在時間を減らし、田舎中心の旅にすれば、ストレスはぐっと減る」
これらの彼の言葉は、いまでも金言として僕の胸の中で輝いている。
宮里くんとは、何度か旅を共にした。
タイ、ベトナム、ラオス、カンボジア。
彼はいつも出発の成田空港に、沈鬱な表情を浮かべてやってくる。
しかし、いざ機上の人となると途端に晴れやかな顔になり、ギラギラとした瞳を浮かべながら喋りまくるようになる。
彼は旅を中心として生きていた。つまり、彼は常にメンタルの激しいアップダウンと共に生きていた、と言い換えることもできる。
長きにわたるアップダウンによって、彼は相当神経衰弱していたのだろう。
ある時、彼と九州旅行に出掛けることになった。
例によって彼は旅の玄関口である羽田空港に「この世の終わり」みたいな顔をして登場した。
まあ、いつものアレで、飛行機に乗ってしまえば治るだろうと、放っておいた。
しかし、飛行機に乗っても彼は依然として「親と血がつながっていないということを、昨日知った」みたいな顔をしていた。
九州に到着しても「家が燃えた。母屋もはなれも燃えた」みたいな顔をしていた。
あろうことかホテルにチェックインしても「彼女から『生理がこない』というメールが送られてきた」みたいな顔をしていた。
彼は押し黙ったままであった。
おそるおそる、僕は尋ねた。「どうした?」と。
彼は重い口を、ようやく開いた。
「…切り替え方が、わからなくなったんだ」
涙目だった。
「どこからが旅で、どこからが旅の直前なのか、わからなくなった」
いや、実際には、彼はそんなことは口にしていない。
ただ一言、「自分でもよくわからない」と答えただけだった。
そして、なんと彼は、そのまま東京へと帰ってしまった。
旅行日程の残り三泊を残して、帰ってしまった。
彼が九州で発したセリフは、ただの三つ。
「とりあえず、このままチェックインしちゃおうぜ」
「あのフロントの女、絶対整形だぜ」
「自分でもよくわからない」
どうして彼がそんなことになったのか、本当のところはわからない。
でもきっと、度重なる「旅行前のぐずぐず感」が重篤化してしまったのだと思う。
どこからが旅で、どこからが旅でないのか。旅のしすぎで、その境界線が煮崩れてしまったのだ。そして、旅に身を置いている最中も、「旅行前」の心境に陥ってしまったのだろう。
以来、彼はピタッと旅をやめてしまった。
僕は宮里くんの二の舞にならぬよう、ほどほどのペースでの旅を心がけている。
宮里くんには、座右の銘があった。
「少年よ大志を抱け」。
クラーク博士の言葉だ。
大志を抱いて宮里くんは旅に出て、そして二度と旅のできない身体になった。
旅とはつまり、快楽である。旅行前の憂鬱感こそが、その快楽の代償だと僕は睨んでいる。
あとで「クラーク博士」を検索してわかったのだが、クラーク博士は意外にも日本滞在期間は8ヶ月と短かったそうだ。
たぶんだけど、クラーク博士も宮里くんと同じように旅をこじらせ「やっぱり、帰りたい」の心境になったのだろう。
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