意外と深い一休さんの「とんち」
人の目を気にせず、自由に生きた風狂の僧
釈迦の説法を守るだけの僧侶は「糞虫」と同じ
「とんちの一休さん」といえば、江戸時代の説話(『一休咄(いっきゅうばなし)』ほか)から今日のアニメまで、広く愛されてきた物語だ。 「衝立の絵の虎を縛れるか」と問われた一休さんは、「追い出したら縛ってみるから、まず追い出してみよ」と返した――。
この類いの逸話は、元をたどれば、〈禅問答をめぐる師僧と弟子の丁々発止のやりとり〉というイメージに基づくもの。とはいえ、風狂の僧といわれる一休宗純(いっきゅうそうじゅん、1394~1481)その人のきわだつ個性から生まれた側面もある。
アニメでは、一休をたえず温かく見守る存在として描かれるのが「母上様」だが、その母が一休に書き送ったとされる遺言が伝わっている。
「あなたは、立派な出家になられて、真に仏法の本質を見きわめ、そのすぐれた眼をもって、私らが地獄に落ちるか否か、迷うか否かをよく見守ってください。釈迦や達磨大師をも奴(弟子)とするほどの人になってくだされば、在家でもさしつかえありません。……悟りの道に到達するのは、あなた自身のお力によるほかありません。なにごとも、誤った考えをしないよう。……かえすがえすも肝要なことは、方便の説法のみを守っている人は、糞虫と同じことです」
釈迦の方便ばかりにとらわれる俗僧など糞食らえ。釈迦や達磨を奴にするほどの坊主になれれば、寺になどいなくてよし。自分の力で真実の悟りを掴め――。この母にしてこの子ありということか。一休はじつにこの遺言のとおりに生きたのである。
すさまじい悟りの光景
一休は、明徳5年(1394)に京都で生まれた。一説に母は南朝方・楠木家の出で、北朝最後の第六代後小松天皇の寵愛を受けて彼を産んだといわれる。天皇の御落胤で、かつ世にはばかる出自だったのは事実だったようで、このことは一休の人格に大きく影響を与えた。
6歳で出家し、京の安国寺、建仁寺で学んだのち、在野で寺坊を構える謙翁宗為(けんおうそうい)に参じた。氏族や門閥を自慢する俗僧がたむろする大寺を飛び出し、貧乏ながら学徳すぐれた師僧の弟子になったのだ。ここで一休は真剣に修行に取り組んだが、謙翁の死で途方にくれ、ついには入水自殺を図ったと伝わる。このとき21歳。
だが自殺は未遂に終わり、大徳寺派屈指の高僧といわれた華叟宗曇(かそうそうどん)の門を叩いた。ときに弟子を責め、罵倒することも厭わない峻厳な師のもとで鍛えあげられた一休は、25歳のとき闇夜に鳴くカラスの声を聞いて大悟したという。
大悟のときの逸話もすさまじい。 一休は、夜明けを待って師・華叟の室に入った。華叟はその所見を聞いたのち、「それは羅漢(煩悩を断ち尽くした小乗の覚者)の境地だ。作家の境地ではない」と言下に言い放った。作家、すなわち深玄な真理を説くすぐれた悟達者には及ばぬという意味である。しかし一休はひるまない。「されば、ただ羅漢を喜んで作家を嫌うのみ」と応えるや、華叟は微笑み、その決然たる確信こそ真の作家だとして一休の悟りを認めたという。
しかし一休は、華叟が授けようとした印可状を師の前で投げ捨て、「これは馬をつなぐ棒杭と同じく、邪魔物でしかない」と言い、室を出ていった。ここから、反骨と風狂、天衣無縫の異端者・一休がその一歩を踏み出したのである。
めでたい正月の巷に、一休は髑髏(どくろ)を竹の棒の先につけ、「このとおり、御用心」と声高らかに叫んであらわれた。「だれもがいつかはこのようになる。明日もこのまま無事だと決めてかかっている人こそ用心せよ」というわけである。その真意は、髑髏を通じて世の無常を知らせ、ものごとの本質(あらゆる事物や現象はすべて実体ではない=色即是空)を教える説法であった。
あるときは木剣を携えてあらわれた。理由を尋ねると、「近ごろのニセ坊主はこの木剣に似ている。鞘に収めておけば(寺におさまっていれば)真剣のようだが、いざ抜けば(信者の間に出れば)その本性がすぐばれて、何の役にも立たない木偶の棒だ」と答えたという。権威ぶった師僧らへの強烈な皮肉である。
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