「必ず老いる」という現実と「老いたくない」という希望
受動的に産み落とされ、しんどい人生を強制的に始められる受難。人生はスタートから思い通りにならないもの。老いも病も、そして死も自分で選ぶことはできない。とはいいつつ、わたしたちの生存本能は、死に至る病、老いに抵抗してしまいます。
人気僧侶作家の小池龍之介さんが思い通りにならない人生に絶望しない方法を、ブッダの言葉より導き出します。
老いや病を操れると錯覚しわがままになった現代人
人は生まれたくないと思っても叶わず、
老いたくないと思っても叶わず、
病みたくないと思っても叶わず、
死にたくないと思っても叶わない。
これが求めて得られない苦しみである。
『大念処経』
徐々にこの身体が老い、しわが増え、節々が痛み、動きがスムーズでなくなっていくのを嬉しいと思う人はいないことでしょう。「長く生きのびたい」という生存本能にとって、老いるということは死に近づいていることを予感させますから、嫌悪の対象となるのです。
ここに大いなる苦しみの原因があります。なぜなら、強制的に老いていくよう身体はプログラムされているにもかかわらず、心は「老いたくない」と嫌がるようにプログラムされているのですから。
つまり、「必ず老いる」という現実と、「老いたくない」という希望がぶつかって、必ずや思い通りにいかずに苦しむ、というように、定められていると申せましょう。
こうして強制的に生まれ、強制的に老いてゆくという受難に加え、誰もがだんだん身体を病んでゆくものです。現代の日本ではお医者さんの数が足りずに、病院ではひたすら待たされるほど患者がたくさんいると耳にいたしますが、これが誰もが「病気は嫌だ、治りたい」と思っている証拠ですね。
けれども、この身体とはどんなに健康体であってすら、必然的に壊れていき、病んでゆくようにできているのです。強制的に病んでゆくのは、必然なのですけれども、健康体でありたいという執着が強いほど、病んでゆく現実を受け入れられず、精神的に強い苦しみを受けることになってしまいます。
ところがアンチエイジングにせよ、進みすぎた医療技術にせよ、中途半端に老いや病を思う通りに操れるかのように錯覚させるものが発達した結果として、現代人はわがままになり、自然の変化を、より受け入れられなくなっているように思われます。
根本的レベルでそれらが思い通りになる、ということは金輪際あり得ない。にもかかわらず、人間の力で介入して若く見せることや治病することに中途半端に成功すると、それに味をしめてますます、「思い通りにならないと気が済まない!」という自己中心性が増大するものです。
その分だけ、やがて強制的に老い、病み、死ぬ現実に直面させられる際に、思い通りにならなさに対して絶望を感じる。
言わばそのための、伏線を用意しているようなものなのです。
老いてゆく自然に任せ、病んだときは鍼を打ってもらったり灸を据えたり、自然な治癒力を引き出す東洋的な処方をする程度にとどめるようにし、あとは自然に任せて死ぬときは、死んでやる。こうして、「思い通りにしたい」を手放してゆく生き方でいれば、自然に逆らわず、老・病・死ともっと仲良くできようというものです。
〈『いま、死んでもいいように』より抜粋〉