マリアナ沖海戦と小沢治三郎中将 ①
機動部隊の生みの親が、
満を持して連合艦隊司令に
小(お)沢(ざわ)治(じ)三(さぶ)郎(ろう)中将は機動部隊の生みの親と言われる。第1航空戦隊司令官在任中の昭和15年(1940)6月、海軍大臣に提出した意見書で航空母艦群を集めた戦闘部隊を編制するべきと説いた。この提案は翌年4月、第1航空艦隊として実現し、連合艦隊司令長官の山本五十六大将が着想した真珠湾奇襲攻撃も可能にした。このことから小沢は航空戦術の第一人者と目されていた。
連合艦隊参謀を務めた千早正隆(元海軍中佐)は戦後、大戦中の山本、古賀峯一、豊田副武(そえむ)、小沢の連合艦隊司令長官の力量を比較し、4人のなかでは「小沢が傑出していた」と評している。
頭脳明晰で闘争心もある小沢だったが、司令長官に就いたときには手腕を発揮できるだけの十分な戦力がなかった。そう考えると、指揮官としての小沢には非の打ちどころがないように思われる。が、決断力がある半面、状況判断に問題があったと指摘する者もいる。
開戦時、小沢は南遣艦隊司令長官としてマレー半島コタバル上陸部隊の支援にあたった。昭和16年(1941)12月10日、小沢麾下(きか)で南部仏印サイゴン(現・ホーチミン)に司令部を置く第22航空戦隊は、シンガポールを進発したイギリス艦隊を襲撃し、新鋭戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と巡洋戦艦「レパルス」を撃沈(マレー沖海戦)。司令長官トーマス・フィリップス中将は旗艦と運命を共にした。