邪馬台国は南の海の上に浮かんでいた?
邪馬台国が九州にあったとする理由 第2回
『魏志』倭人伝を読み解き、「邪馬台国=九州説」を徹底検証する第2回!
『魏志』倭人伝に記されている邪馬台国への道程とは?
『魏志』倭人伝に記されている邪馬台国への道程とは?
『魏志』倭人伝のとおりに道程をたどると、
邪馬台国は南の海に浮かんでいる
このほか、女王国(邪馬台国)の南に狗奴(くな)国という国があり、女王国と狗奴国とは、仲がよくなかったこと、女王国より北には一大率(いちだいそつ・一人の身分の高い率=リーダー)をおいて諸国を検察させていること、一大率は、伊都(いと)国(糸島半島の福岡県糸島付近か)で政治を行なっていたこと、なども『魏志』倭人伝には記されている。
魏の時代の距離の単位「1里」は、434mほどであった。魏晋時代のモノサシなどが出土しているが、その1尺は24㎝ほどである。そこから、6尺が1歩、300歩が1里という規定によれば、1里は434mほどとなる。1里を434mほどとすれば、『魏志(魏書)』の「韓伝」に「方四千里」と記されている「韓」(朝鮮半島の国)は、台湾あたりまでぶらさがっていることになる。また、『魏志』倭人伝に記されているとおりに道程をたどると、邪馬台国は九州を通り越して、南の海の上に浮かんでいたことになる。
このようなことから、琉球大学名誉教授の木村正昭氏の『邪馬台国は沖縄だった!』(第三文明社刊)や、神戸大学名誉教授の内田吟風氏の『邪馬台国=ジャワ・スマトラ説』、加瀬禎子氏の『邪馬台国はフィリピンだ』(月刊ペン社刊)などの見解がでてくることになる。
《邪馬台国が九州にあったとする理由 第3回へつづく》