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信長の遺骸はどこに消えたのか①

覇王・織田信長の死生観 第9回

天下統一を目前に控えた織田信長は、
本能寺の変で突然の死を遂げた。
最期まで自ら槍を取り戦った信長の人生は
命知らずの破天荒なものだったのか?
信長は死をどのように捉えていたのか?
そして、ついに見つからなかった死体の行方は?
未だ謎多き信長の人生と死に迫る!

 

信長の遺骸はどこに消えたのか①

 本能寺での戦闘は、おそらく1時間ぐらいで決着がついたと思う。戦闘要員100人そこそこの信長側に、1万3000ともいわれる明智軍が攻撃したのでは戦いになるわけがない。午前7時頃には、信長の身体と一緒に本能寺は炎上したものと思われる。

 イエズス会の宣教師ルイス・フロイスは、1582年11月5日(日本の暦では天正10年10 月20日)付けでイエズス会総会長に宛てた年報追加の中で、次のように報告している。

「ある人は彼(信長)が切腹したと言い、他の人たちは宮殿に火を放って死んだという。しかし我らの知りえたところは、諸人がその声でなく、その名を聞いたのみで戦慄した人が、毛髪も残らず塵と灰に帰したことである」

 変が勃発した時、フロイスは九州・肥前の口ノ津に滞在していた。だから変についての記述は、京都南蛮寺にいたカリオンからの聞き書きと思われる。

 しかし、信長の遺骸が見当たらなかったのは間違いないようである。いくつもの日記がその後の様子を伝えているのに、信長の遺骸についての記述はどこにも見当たらないからである。江戸時代になってから出された本だが、小瀬甫庵の『信長記』には、光秀が自軍の兵に命じ、必死になって信長の遺骸を捜させたが見つからなかった、と書かれている。

<次稿、覇王・織田信長の死生観 第10回につづく>

<前回の記事、覇王・織田信長の死生観 第8回はこちら>

 

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谷口 克広

たにぐち かつひろ

1943年、北海道生まれ。横浜国立大学卒業。戦国史研究家。織田信長研究の第一人者。主な著書に「織田信長家臣人名辞典」(吉川弘文館)、「信長と消えた家臣たちー失脚・粛清・謀反」(中公新書)など。


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