将兵のほとんどが逃げ出した後の末路
武田信玄の遺言状 最終回
覇王信長が最も恐れた武将・武田信玄。将軍足利義昭の求めに応じて上洛の軍を起こすが、その途上病に冒され、死の床につく。戦国きっての名将が、武田家の行く末を案じて遺した遺言には、乱世を生き抜く知恵が隠されていた――。
そこに怒涛のごとく天正10年、信長の軍勢が押し寄せた。城も非力なら、人材も非力であった。しかも勝頼を嫌う武田一族や家臣がいた。穴山信君(あなやま のぶきみ)は勝頼を裏切り、家康に降伏する。信玄の娘を妻とする木曽義昌(きそ よしまさ)は信長に鞍替えした。
勝頼が北条氏から迎えた妻は19歳だった。彼女は必死に勝頼の勝利を祈り、武田八幡に直筆の願文を納めた。
(編注/願文では「勝頼累代重恩の輩、逆臣と心を一つにして、たちまちに履さんとする」と、身内の裏切りに怒りをあらわにし、「願わくば霊神、心を合わせて、勝つことを勝頼一己につけしめ給い」と、勝頼の勝利を祈願している)。
将兵もほとんどが逃げ出す。勝頼はわずかな兵と侍女を伴い、武田年来の旧臣・小山田信茂(おやまだ のぶしげ)を頼って大月の岩殿城(いわどのじょう)をめざすが、笹子峠(ささごとうげ)を目前に裏切られた。
日川(ひかわ)の渓流道に取り残された勝頼主従は、やむなく大菩薩峠をめざすが、織田軍に囲まれる。
侍女17人は日川の断崖から身を投げた。北条夫人は口から短刀を呑み込んで自刃する。37歳の勝頼は刀を振るい、信玄が後継ぎと誌名した16歳の信勝(のぶかつ)は槍をかざして奮戦した。
しかしながら、4000の敵にあらがうすべもなく、山峡・田野(たの)の地に武田氏は滅びた。(了)
文/楠戸義昭(くすど よしあき)
1940年和歌山県生まれ。毎日新聞社学芸部編集委員を経て、歴史作家に。主な著書に『戦国武将名言録』(PHP文庫)、『戦国名将・知将・梟将の至言』(学研M文庫)、『女たちの戦国』(アスキー新書)など多数。