佐世保に残る貴重な近代遺産
リアル要塞跡から兵隊目線で長崎の海を眺める
佐世保要塞(長崎県佐世保市)
明治10年代、九州など西日本一帯の防衛を担うため、九州西岸に海軍の軍港を建設することになった。その際、候補地のひとつとして選ばれたのが、当時人口3000人足らずの村であった佐世保である。
そして、他候補地である伊万里(いまり)や江袋(えぶくろ)湾とともに、海軍内で検討された末、守りやすい天然の良港である佐世保に「第三海軍区鎮守府」を置くことが決定された。
全国の軍港には防備のために陸軍によって必ず要塞が設置された。明治23(1890)年、大陸にもっとも近い内地の鎮守府が佐世保に開かれると、さっそく翌年には陸軍によって佐世保要塞の建設が計画される。
軍港・佐世保は、その立地から日清・日露戦争において出動の際に連合艦隊が必ず集結した港であり、朝鮮半島や中国大陸などに進出する根拠地として、補給能力の充実に力が注がれた。それだけに、港を防衛する要塞はきわめて重要であったが、皮肉にも要塞計画が決定した後に日清戦争が起きたために着工が遅れることとなった。
戦争終結後の明治30(1897)年になって、ようやく佐世保湾口北側の高後崎砲台と、湾口南側の面高堡塁から工事が開始された。
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