「いろいろな選択肢がある中で、なぜ社会学者に?」古市憲寿さんに聞く!(2)
「社会学者」は便宜的な一つの肩書にすぎない
何冊もの著作を出される研究者としての顔から、一風変わった学者観までお話を伺いました。
社会学者に「なる瞬間」がある
「社会学者になろう」と思って、意識的に今の道を選んだわけじゃないんですよ。基本的に流れに身を任せるタイプなので、気付いたら「社会学者」と呼ばれることが多くなっていた……という感じで。
それに24時間「社会学者」をしているわけではないので、場面場面でそうなる瞬間がある、というイメージです。
ただ「就活」だけは、明確な意志を持って避けてきましたね。企業に就職して、毎日同じ場所に行って、同じような業務を日々繰り返すことに、乗り気になれなかったんです。大学3年のときに1年間ノルウェーに留学したのも、元はと言えば就活から距離を置きたかったからでしたし(笑)。
けれども、留学を機に北欧の福祉政策やジェンダー政策に興味を持ったことが、後の著作につながったり、それなりに自分の“人生の流れ”は生かせているなと感じます。
僕はいま大学院に在籍していますが、留学から帰ってきた時点では、大学院に進学するつもりはなかったんですよね。卒業後は大学の友人が立ち上げていたベンチャーで働こうと思っていましたから。
そんな中で、大学でお世話になっていた長谷部葉子先生に「古市くん、東大の大学院に行った方がいいんじゃない?」と言われたんです。研究自体は好きでしたし、大学院ならベンチャーの仕事とも両立できると感じたので、進学することにしました。
的外れな批判
「社会学者」としての仕事が増えた契機は、大きく2つあります。
1つ目は、大学院で書いた「ピースボート(約100日間かけて世界一周をする船舶旅行)」についての修士論文が、『希望難民ご一行様 ピースボートと「承認の共同体」幻想』(2010年、光文社新書)というタイトルで出版されたこと。
論文指導をしてくれた方々の1人の本田由紀さんの勧めがきっかけで、新書として出版することになりました。
2つ目は、初めての書き下ろしとなる『絶望の国の幸福な若者たち』(2011年、講談社)を出したことです。この本の出版以降、メディアに呼ばれることが急激に増えました。
当時は東日本大震災が起こった影響で、日本の社会全体に「このままじゃいけない、新しい社会システムを再構築していかないといけない」という空気があったかと思います。その流れから「これから時代を背負う若い人の声を聞かなきゃいけない」となった時に、ちょうど僕という存在がマッチしたんだと思います。
20代で見た目も若者っぽくて、若者についての本を出していて、一応“研究者”という肩書きもある……メディア上で若者を語らせるのに、とても都合のよい存在だったんだろうと思います。
だから、そもそも僕は自分のことを「社会学者」だとは強く意識したことはないんです。そう呼ばれる機会が多いので、便宜的に使っているのが現状です。
ときどき、僕の発言がインターネット上などで否定的に取り上げられると「社会学のイメージが悪くなるから、社会学者を名乗るな」って叩き方をされることがあるんですけど……これは正直「僕に言われても」という感じがしています。
たとえば、1人の経済学者が問題行動を起こしたからといって、経済学の存在自体が問題視されることはあり得ませんよね。僕が「社会学者を名乗るな」と言われる背景には、比較的新しい学問である「社会学」の存在基盤の緩さがあるんじゃないですか。
僕を批判する人には、無駄な批判をしている暇があったら社会学を立派な学問にして頂きたいなあとは思いますけど(笑)。「社会学者」の肩書きにこだわりはないので、そのうち違った肩書きになっているかもしれませんね。