蛭子能収「本当は映画監督を目指していた」!?
蛭子能収さん30日毎日連載 Q2.漫画家になるきっかけは?
看板書きながら、いつかは漫画を描く仕事に就ければいいなと思ってました
本当の最初というと、小中学生のころからノートに書いてましたね。よく学校にいる嫌いなやつを殺す、みたいなそういう漫画を書いてました。それから本格的に書くきっかけになったのは、18歳で地元(長崎県)の看板屋に就職したんですね。
そこの看板屋に俺より先に勤めている1つ年下の男の子がいて。その子が漫画クラブというのを作っていて、そこに入れてもらったのがきっかけですね。就職してる人もいれば、大学に行ってる人もいて。今だったら同人誌とかになるんでしょうけど、当時は原画を綴じてそれぞれ見せ合うみたいな感じでしたね。
その時はずっと仕事で看板書いてたわけですけど、仕事自体はあんまり面白いなとは思ってなかったんです。
実際に自分が看板屋の主人になれば面白いのかもしれないけど、下積みで働いている間は、ずっと社長の言う通りに描き続けるだけじゃないですか。「書きたい絵が書ける」というよりはもっと単純な肉体労働みたいなものがすごく多いので、なんかキツイなとは思っていたんですよね。それでできれば今のような労働じゃなくて、机で漫画を描くような、そういう風な仕事をできたらいいなと思い始めましたね。
ただその頃は映画製作にも興味あったので、漫画家か映画監督のどちらかと思ってました。
映画もすごくよく見ていたので。でもそれになる方法は全くわからなくって。それで25歳の時に旅行に出たんですよ。看板屋には「万国博覧会を見に行きたいので仕事を休ませてください」と言ったんですけど、そのまま東京に来ちゃったんですよ。大阪にも寄らずに。それは今でも悪いことをしたなと思っているんですけど。
それで東京に来て最初はたまたま見つけた看板屋さんで働くことにして。広告代理店という名の看板屋さんだったんですけど、いちおうグラフィックデザイン室というのがあってそこで働きたかったんですね。でもデザインの経験もないし、まずは肉体労働ということで看板部で働くことになって。3食付の寮があったので助かりましたね。
そこに行きながら、夜は1年間シナリオセンターに通ったんです。そこに行ってれば、8ミリとか16ミリを使って、映画グループみたいなのができるんじゃないかと思っていたんですけど。一年間、誰とも一言もしゃべれなくてですね(苦笑)。
映画はもうそれで諦めて。それでも1年間は行ったんですけど、それからはもう、ひとりでできる漫画に。それで描いていたら漫画が『ガロ』という雑誌に入選したんです。それでやっと俺は漫画家の道を行くぞ!と思えましたよね。