瘦せることがすべて、
そんな生き方があってもいい。
「瘦せ姫」とはなにか?
摂食障害になった女性たちとの30年余りの交流と思考の軌跡がまさに奇跡の本に!
瘦せ姫。
そう呼ばせてもらっている女性たちがいます。
いわゆる摂食障害により、医学的に見て瘦せすぎている人のことですが、彼女たちはある意味、病人であって病人ではないのかもしれません。というのも、人によってはその状態に満足していたりしますし、あるいは、かつてそうだったことに郷愁を抱く女性や、むしろこれからそうなりたいと願う女性もいるからです。
それは「瘦せ」の実現が本人に誇りや安心、慰めをもたらすところがあるからでしょう。それゆえ、彼女たちは多大な犠牲を払っても「瘦せ」にこだわるのだと考えられます。
この本は、そういう女性たちに特別な魅力を感じる者からのラブレターのようなものです。などと言うと、奇異に思う人もいるかもしれませんが、最初の出会いは今から40年近く前、とある新聞記事でのこと。「食べたくないの」と題されたその医療コラムには、体重20キロ余りにまで瘦せた中学生のケースが紹介され、成熟拒否や自立での挫折といった背景要因が綴られていました。写真などはなかったものの、活字だけでグッと惹き込まれるものがあったのを覚えています。
その後、実際に瘦せ姫ならではのきゃしゃすぎる外見を目にしたり、完璧主義などの性格的傾向に接するにつれ、関心はどんどん増していきます。やがて、数多くの人との交流—— 取材はもとより、友情や恋愛—— を経て、その容姿と精神性とに好意を抱くようになりました。つまり、自分にとって瘦せ姫は病人である前に愛しくリスペクトする存在なのです。
とはいえ、世間からすればこれは少数派的でいささかマニアックな感覚なのでしょう。そんなある日、腑に落ちるような言葉に出会いました。世界的文豪のヘルマン・ヘッセが、小説『クヌルプ』の主人公に語らせた言葉です。
「最も美しいものは、人がそれを見て、喜びのほかに悲哀や不安を覚えずにいられないものだろう」(註1)
だとすれば、生きることの悲哀や不安を如実に体現する瘦せ姫の姿こそ、究極の美であるということも可能なのでは。以来、さらなる自信と矜持(きょうじ)を抱いて、病気という枠組みだけではとらえきれない彼女たちの魅力を伝えることができるようになりました。
実際、近年では欧米を中心に「プロアナ(Pro-ana)」という運動が活発になりつつあります。摂食障害を「病気」でなく「生き方」のひとつとして肯定していこうというものです。もちろん、瘦せすぎることの弊害は小さくありませんが、それでもなお「瘦せ」を希求せざるをえない人が一定数いたり、あるいは人生の一時期、必要になったりするのも現実なのです。
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