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“戦艦大和は床の間の飾り”
山本の痛烈な憎まれ口の数々

山本五十六ははたして名将だったのか?  第3回

 このような山本の航空主兵の考え方は、戦艦大和の建造計画が持ち上がった段階ですでに確固としたものになっていた。それは航空本部技術部長や航空本部長時代に航空機の異様に迅速な発達を予測できたからだった。そして、自らもその発達に携わったからでもあった。

 山本は航空本部技術部長時代に、新しい艦上戦闘機の条件として「英米機よりも速力で絶対優勢であること」と簡潔に指示した。技術者は200ノットを超えることを目指して設計したが、それでは既存の空母では飛行甲板が短すぎた。

 技術部員(佐波次郎。のち少将)の訴えに山本は、「戦闘機に空母を合わすのは当然だ」と即断した。こうして誕生したのが96艦戦だった。

 技術部長時代の山本はまた、のちに中攻と呼ばれた96式陸上攻撃機(陸攻。爆撃機と雷撃機を兼ねた)の開発にも関わった。日中戦争から太平洋戦争時代に海軍航空の代表的な戦闘機と爆撃機の開発に関わった山本の航空主兵論は、具体的な実質に裏打ちされていたのだ。

 太平洋戦争開戦時は96艦戦はゼロ戦に、96式陸攻は1式陸攻に代替わりし、一段とグレードアップを果たしていた。しかし、山本の航空主兵の考え方は受け入れられず、大和以下4隻の大艦建造が決まった。山本は設計担当者の福田啓二造船大佐(のち中将)に「どうも水を差すようですまんがね、君たち一生懸命やっているが、いずれ近いうちに失職するぜ。これから海軍も、空軍が大切で、大艦巨砲は要らなくなると思う」などと憎まれ口をたたいたという。最後には、「ま、床の間の飾りぐらいには役立つだろう」と諦めた。

開戦当時、航続距離や旋回性能で米英の戦闘機を大きく突き放していた日本海軍の主力戦闘機、零戦

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