大艦巨砲主義に見切りをつけ
航空主兵主義で戦果をあげた
山本五十六ははたして名将だったのか? 第2回
山本が連合艦隊司令長官になって1年近く経ったとき、海軍は陸軍の要求を飲み、三国同盟を締結した。すでに山本は事前に相談に与る立場になかった。しかし海軍首脳への“説明会”で、及川古志郎海相が「事情やむを得ないものがあるので、勘弁してくれ」と頭を下げても、三国同盟の危険性と理不尽を訴え、「勘弁ですむか」と悪態をついたそうである。
ハワイ出撃が決まった後も、開戦41日前、永野修身軍令部総長に面談し、“成算なき闘いはすべきではない”と直言した。山本は開戦に本当に反対だった。
太平洋戦争が始まるまでは、大艦巨砲主義が世界の主流であった。海戦は相手よりも大きな戦艦に巨大な大砲を搭載しているほうが勝利するという考えだ。大きな大砲ほど遠くへ飛ぶからだ。敵艦をアウトレンジ(射程外に置くこと)出来れば相手の大砲は届かない。
大艦巨砲主義はまた、戦艦は戦艦の砲撃でしか撃沈させられないという信念に支えられていた。
その世界の常識を打ち破ったのが真珠湾奇襲でありマレー沖海戦だった。真珠湾では“停泊中への戦艦”を、マレー沖海戦では“洋上で動き回っている軍艦”を航空魚雷や爆弾で沈めた。飛行機攻撃で軍艦が沈む。それを山本は実証して見せた。アメリカ海軍がびっくりしたのは言うまでもなく、早速まねて空母機動部隊を編成した。