「崩された失点ではない」から考える
サッカーの<言葉><常識><セオリー>の盲点【岩政大樹――現役目線】
「現役目線」――サッカー選手、岩政大樹が書き下ろす、サッカーの常識への挑戦
■「言葉」にプレーが引っ張られる
僕はサッカー選手や監督の心理面を想像しながらサッカーを見るのが好きなので、試合後のコメントなどをよく見ています。本音で語られているものがあれば、そうでないものもありますが、その選手、監督の性格や心理などを想像しながら読むと、だんだん選手が本当に考えていることや、チームがどのように歩んでいるのかが見えてきます。そうしたことを踏まえて結果を見るのはいろんな人生模様を覗けるようで楽しくて、今では趣味みたいなものになっています。
その中で、(得点を許してしまったチーム側のコメントとして)「崩されてやられた失点ではない」という言葉を目にすることがあります。みなさんもあるのではないでしょうか。言葉とは面白いもので、誰かが話し始めるとあちこちで使われるようになり、ひとたび広がってしまうとその言葉に思いの外、影響されてしまうことがあります。僕も気づかないうちに"崩された"形かどうかで失点の形を判別していたことがあったと思います。しかし、最近ではこの言葉にとても違和感を覚えるようになりました。
今回は「崩す」「崩される」という言葉についてちょっと立ち止まって考えてみたいと思います。
まず、「崩された失点」という言葉です。
どのような"やられ方"を「崩された」と表現するかにもよりますが、きっと選手が口にするような“きれいに崩された失点”というのは、相手のいいようにボールを回されて、なすすべなく失点してしまったような形だと思います。
僕がこの言葉に違和感を感じるのは、そもそも「崩された失点」がどれくらいあるのか、ということに疑問を持っているからです。きっと、そのような形の失点はJリーグにおいては全体の2割か3割あればいいほうではないでしょうか。
むしろカウンターやセットプレー、セカンドボール、ミス。そうした一見、事故のようにも見える形からの失点のほうがはるかに多く、いわゆる「崩された失点」というものは実は多くはないのです。
先日行われたリオデジャネイロオリンピック日本代表においても、ほとんどの失点が自分たちのミスからだったということで結論付けられていますが、そもそもがサッカーとはそういうスポーツであるということです。