武田信玄と上杉謙信の相性は最高! 同じ国に生まれていたら絶対仲良しに!
歴史上の人物を四柱推命で鑑定! 第4回
武田 信玄(1521-1573)
生年月日:大永元年11月3日(和暦)
西暦1521年12月11日(グレゴリオ暦)
上杉 謙信(1530-1578)
生年月日:享禄3年1月21日(和暦)
西暦1530年2月28日(グレゴリオ暦
○基本相性
精神面(第一印象) 25%
現実面(少し深い付き合い) 25%
仕事の相性 25%
金銭感覚 25%
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100%
●神さまは意地悪!? ふたりは最高の相性
なんと、二人の相性は100%。もう数年鑑定士をやっているが、滅多に出ない最高の相性。同じ国に生まれていたら、間違いなく仲良くなり、よき仲間になれただろうに、あろうことか隣国の大名同士だったとは、神さまの意地悪としか言いようがない。
これほど相性がいい二人だったからこそ、お互いに何か惹かれるものがあったのか?両者の戦い、いわゆる川中島の合戦は、5度、12年にも及ぶ。川中島の合戦は北信濃の支配をめぐっての争いであったものの、勝負がつかず、結局両者にさほど得るものがなかった。ましてや、北信濃に緊張状態が生じていたことで、両者は他の地域への積極的展開に踏み切ることができなかった。時は戦国。他の大名の動きもさることながら、自国の領地にも目を配らなければならない。そんな中、12年という長い期間を川中島の合戦に費やしていたとは、両者の間で何か惹かれ合うものがあったと言っても過言ではない。
○守護神
信玄にとって、謙信は守護神の存在である。守護神とは、キーパーソン。自分の足りない部分を補ってくれる存在。自分では気がつかない部分を教えてくれたり、自分の新たな能力を引き出してくれたりする。
「敵に塩を送る」ということわざの由来になったように、謙信が信玄に塩を送ったという話は有名である。武田氏と敵対していた今川氏と北条氏は結託し、甲斐に塩を流通させないという「塩攻め」を行った。信玄の領地である甲斐は海がないため塩を得ることができない。甲斐の領民が塩不足に悩まされていることを知った謙信は、信玄統治下の信濃に塩を売っている。塩は人間にとって必需品。信玄はこの謙信の心意気をどれほど心強く感じたことだろうか?信玄の守護神である謙信だからこそ、なされた配慮であったとも考えられる。
また、信玄が亡くなる前に勝頼らに残した遺言書の中に、「謙信に敬意を表して頼るように」という文言が残されている。5度の戦等を通して謙信を見定め、武田家のキーパーソン、自分にない部分を補ってくれる存在であると考えたのであろう。実際、武田家と上杉家の間で和議が結ばれ、甲越同盟の締結が行なわれた天正7(1579)年に信玄の五女(母・油川夫人)である、菊姫が上杉景勝に嫁いでいる。
両者の相性鑑定結果について、高家武田家第16代当主、武田邦信氏と、上杉子爵家第9代目当主、上杉孝久氏に見解を伺った。
武田さん「納得の結果。両者は違うタイプだからこそ、お互いにその部分を認めていたのでは?遺言の中で信玄が上杉家を頼るように述べたのも、織田家、徳川家に対抗できるのは上杉家しかいないと信頼していたから。今では上杉さんと一緒に取材を受けることも多く、縁を感じている。」
上杉さん「やっぱり!私も両者の間には何か不思議な縁があると考えていた。川中島の5度の合戦のうち4度はにらみ合いであった。お互いにお互いを意識していたとしか思えない。信玄の訃報を耳にした謙信は、食事の手を止め、涙ぐんだと聞いている。一種のシンクロニティなのでは。だから今、武田さんとも馬が合うのだろう。」
武田信玄と上杉謙信。両者は出会うことができたのだろうか?激戦になった、川中島の第四次合戦において、2人による一騎打ちがあったという逸話も残っているが、定かではない。300年を超える時を超え、武田家と上杉家は交流が続いている。会えそうだけど、会えない。しかし、お互いに意識していることをお互いに認識している。そんな両者の思いを想像すると、その思いが今、両家を結び付けているのでは?と憶測したくなる。
古代中国で生まれた「過去、現在、未来」を予見する運命学のひとつで、陰陽五行説(いんようごぎょうせつ)をもとに、人が生まれながらにして持っている性格、能力、素質を理解し、その人の努力や経験で変わる後天的な運命までも予測することができる。
具体的には、生まれた日(生まれた年・月・日・時間)をもとに命式表(めいしきひょう)を作成し占っていく。
ここでは、「国史大辞典」に記載されている生年月日を、「和洋暦換算事典」を用いてグレゴリオ暦に換算し鑑定している。