小牧源太 ~美濃のマムシ・斎藤道三を討ち取った男~
日本史の実行犯 ~あの方を斬ったの…それがしです~
下剋上によって美濃一国を手に入れた戦国の梟雄・斎藤道三(さいとう・どうさん)。「美濃の蝮(まむし)」の異名を取る道三は、実の息子に攻められ最期を迎えました。その際、道三を討ち取った者こそ「小牧源太(こまき・げんた)」という無名の荒武者だったと言われているのです。
源太の生年はわかっていませんが、生まれは尾張国小牧(愛知県小牧市)だそうです。幼少の頃から道三の側近くに仕えたと言われています。側近くに仕えたということは、道三の小姓や馬廻として仕え、斎藤家の将来を託される優秀な若者の一人だったと考えられます。
主君の道三の下で出世を期待された源太ですが、間もなくして道三の下を離れてしまいました。これは道三のやり方を選ばない振舞いに原因があったと言われています。道三は美濃国(岐阜県)を手に入れるために主君を暗殺し、国主の土岐頼芸(とき・よりのり)を追放するなど、非道な所業を重ねていました。源太はこういった振舞いに嫌気が差したのかもしれません。
源太が新たに仕えたのは斎藤義龍、道三の長男です。実は義龍は道三の実子ではなく、かつての主の頼芸の落胤と言われていました。そのため道三は、義龍に家督を譲るのを良しとせず、実子である孫四郎(次男)や喜平次(三男)を溺愛し、家督を譲ろうと工作しました。これに異を唱えた義龍は、弟の孫四郎と喜平次を暗殺し、父の道三との対決姿勢を顕わにしました。
そして、時は弘治2年(1556年)4月20日―――。
義龍は稲葉山城から1万7500とも言われる大軍を率いて、鷺山城から出陣して長良川に対峙する道三の2700余の軍勢に襲い掛かりました。いわゆる「長良川の戦い」です。
(かつて御恩を被った大殿を、他の者に討たせてたまるか!)
源太はこの時、自らを見出してくれた道三への恩義を感じながらも、義龍の軍勢に加わっていました。
道三は寡兵ながら、義龍方の先方であった竹腰道鎮を討ち取り、一騎打ちを挑んできた長屋甚右衛門(義龍方)も柴田角内(道三方)が討ち取るなど、緒戦を優位に進めました。
「さすがは大殿じゃ…」
父と子の二代で、一介の油商人から美濃国主までのし上がった道三の戦法はやはり見事でした。
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