「リベラル」のない民主主義なんて、誰も見たくない。
民進党代表選挙から考える「党派」と、その対立
党派の対立は避けられるものではない
民進党代表選挙は、蓮舫氏の「二重国籍問題」の話題で終始もちきりとなった。そのため、肝心の政策論争や、今年新しく結党された政党をどのような政党にしていくのかという議論は、残念ながらほとんど聞こえてくることがなかった。
「二重国籍問題」の是非も重要だが、それ以上に、野党第一党である民進党がどのような政党となっていき、どのような政策を打ち出すのかということも重要な論点である。そこで、改めて「二重国籍問題」以外の観点から今回の代表選挙を考えてみると何が言えるのだろうか。私が感じたのは、自民党、公明党の主張には賛成できないものの、かといって共産党には投票したくないというような、今までの民主党を支持してきたいわゆる「リベラル」な志向を持つ人たちが、どの政党に投票すれば良いのか、わからなくなってしまうのではないかということである。
新代表として選ばれた蓮舫氏は代表選期間中に「私はバリバリの保守ですよ」と発言し、前原誠司氏は民進党内でも保守系とされている。また、玉木雄一郎氏は政見にて「民進党は、共同体によって紡がれてきた『日本の伝統と文化』を守り、『人々が支え合って暮らす穏やかな社会』を大切にしながら、同時に、世界に開かれた国創りにも必要な『多様性』や『先取の気性』を尊ぶ『リベラル保守政党』であることを明確にします」と掲げていた。
このように、代表選挙に出馬していた三人ともが、世間から民進党という政党が実質的にどのように見られているかは別としても、保守を自称したり保守派とみなされていたりしたのである。
そもそも、「右」対「左」、「保守」対「リベラル」というのが、必然的に政治的対立軸となるわけではないし、一概に「保守」といっても様々な違いもあるだろう。しかし、与党の自民党が保守政党であるのに対して、二番目の勢力を持つ野党の民進党の党首も「保守」を掲げるのであれば、民主主義にとって必要不可欠な多様性が損なわれ、選択肢が狭まってしまうのではないだろうか。
18世紀イギリス、スコットランドの哲学者であるデイヴィッド・ヒューム(1711〜1776)は「党派一般について」というエッセイにおいて、次のように考察している。
党派は、政体を転覆させ、法を無力にし、相互に助け合い、防衛し合うべき同国人の間に最も激しい敵意を生み出す。国家においてこういった雑草がいったん根をおろすと、根絶するのは難しい。この雑草は、自由な政体においてはたやすく発生し、立法府それ自体を汚染してしまうため、急速に繁栄する。
党派にも様々なものがあり、一様に分類するのは難しいが、大きく分ければ個人的な友情あるいは敵意に基づく「個人的な要因によるもの」と、見解あるいは利害におけるある実質的な相違に基づく「実質的な要因によるもの」とに分けられる。
人間は、個人的な要因による党派に分裂する傾向が強いため、実質的な要因がごくわずかでも現れると、個人的な要因による党派が生み出される。個人的な要因による党派は歴史上多く見られたが、それらの間の抗争は社会に憎しみと混乱を生み出し、数々の政体を滅亡させてきた。
一方、実質的な要因による党派は、利害から生じるもの、原理から生じるもの、愛着心から生じるものという三種類に分類できる。このうち、利害から生じるものが最も穏当で申し開きの余地のあるもので、原理から生じるものは狂気と熱狂による分裂を生み出すものであり、愛着心から生じるものは激烈な党派である。
ヒュームはこのように、党派や党派間の対立を、賞賛すべきものではないにしても、「人間本性」から生じる、避けられないものとして捉えている。
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