攻撃的で野性的だが、実は慎重派。根っからの王様タイプ・織田信長
歴史上の人物を四柱推命で鑑定! 第6回
織田 信長(1534-1582)
生年月日:天文3年5月12日(和暦1534年7月3日)
西暦1534年7月3日(グレゴリオ暦)
※信長の生年月日については諸説あるが、ここではルイス・フロイスの記述から生年月日を導いた、松田毅一先生の説を採用した。
それでは、上の命式表を見ながら鑑定していく。
・日柱の干支:「戊寅」(つちのえとら)
これは「春」の「山」を表す。まだ雪の残る春の山で、冬から目覚めようとしているパワーを持つ干支。山は動かず、動じず。よってどっしりとした安定感のある人物であったことが読み取れる。同様に「戊寅」を持つ人物として、ヒラリークリントンや稲垣吾郎(SMAP)がいる。
次に、通変星(つうへんせい)・蔵干通変星(ぞうかんつうへんせい)・十二運星(じゅうにうんせい)を用いて性格を見ていく。
・主星「印綬(いんじゅ)」:習得本能が強く、勉強好き。幅広い知識を持ち冷静に思考するとにかく頭のいい人物。論理的に物事を考えるため、慎重派である。信長は命式表の中に2つの「印綬」を持ち合わせているため、その性質が強まっていると考えられる。信長といえば、天才肌で考えずに行動するというイメージを持つ人が多いかもしれないが、最近の研究で、「平家物語」を中心に日本史を学び、兵法の師匠を常に身近に置いて孫子、呉子等の兵法を学び、イエズス会を通じて世界を学ぶというように、常に学問に勤しみ、莫大な知識を蓄えていたことが明らかになってきた。歴史に学び、多くのデータを持っていたからこそ、周りから見たら理解できない行動を成し遂げて来たとも言える。また、戦以外でも、信長の才が発揮されており、商工業が自由に取引できるようにしたり、関所を取りやめ流通を活性化させたりした「楽市楽座」は当時新しい発想であり、信長の冷静な頭脳をもってこそ、実行され得たのであろう。
・自星「偏官(へんかん)」:行動的、攻撃的、野性的な星。命式表の中に「偏官」を2つ持っており、その性質が強まっている可能性がある。恐らく、軍記物、ドラマ、映画等によりイメージされるのは、このタイプの信長だろう。思い立ったら即行動に移す、大胆不敵な一面もあったのだろう。信長の戦好きについては多くの文献で記述されており、1560年の桶狭間の戦いで今川義元を破り、足利義昭を京都から追放し、1582年の長篠の戦いで、戦国最強騎馬軍団・武田氏を破る等の偉業を成し遂げ、天下統一を成し遂げている。強い攻撃本能が信長を突き動かしたのだろうか。なお、ルイス・フロイスの「日本史」によると信長の人物像について「善き理性と明晰な判断力を有し、決断を秘め、戦術にきわめて老練で、忍耐強く、はなはだ大胆不敵。極度に戦を好み、軍事的訓練にいそしみ、名誉心に富む。」と記載されている。まさに、印綬と偏官が組み合わさった人物であったと考えられる。
・「食神(しょくじん)」:おおらかで明るい、遊び好きの星。そして、食を大切にするグルメの星である。信長は鷹狩や相撲、乗馬が趣味で、相撲を取らせたり、鷹狩に出かけたりしている。信長が南蛮から文化を輸入し、新しいもの好きであったが、南蛮の甲冑を身に付けたり馬揃えで派手な装束で登場したり、仮装祭りで女装をしてみたりと、信長の奇抜なファッション、趣味趣向については話題が絶えない。また、信長が自分の子どもに付けた幼名にも相当な遊び心を感じる。長男・信忠(のぶただ)の幼名は奇妙な顔をしているからと「奇妙丸」、次男・信雄(のぶかつ)の幼名は茶筅が結えそうな髪型をしていたから「茶筅丸」とキラキラネームばかりで、九男・信貞(のぶさだ)に至っては「人(ひと)」であったとか。
・「帝旺(ていおう)」:最もエネルギーが強い王様の星。統率力とカリスマ性を持ち、頑固で絶対的な存在であったことが予想される。また、「帝旺」を命式表に2つ持っていることから、根っからの王様タイプだったのであろう。ルイス・フロイスの「日本史」によると、「ほとんど家臣の忠言に従わず、一同からきわめて畏敬されていた。万事において人々は彼の言葉に服従した」とあり、頑固に自分の意見を通し、カリスマ性を持って統率してきた様子が窺える。
・長生(ちょうせい):人から信頼される星。精神的な見栄があり、何事も器用にやり遂げる気質である。もともと他人からの信頼が厚い人物であったからこそ成し遂げられた天下統一であったと思うが、人から信用されたいという欲も強かったようで、イエズス会に対し、安土城屏風を送る等して常に気遣いをしていたという。
今回の鑑定結果について、織田家ご末裔(織田信長の次男、信雄の流れを汲み、織田信長廟のある總見寺の江戸時代最後の住職の家系)の織田茂和(しげかず)氏に見解を伺った。「戦国時代という常に死と向かい合わせの環境にあったからこそ、信長が活躍できたと考えている。追い込まれてからの鋭い感覚、見えないところから感じ取る力は、積み重ねて来た知識と天性のカリスマ性があったからこそなのでは。」というコメントを頂いた。また、明智光秀の子・於寉丸(おづるまる)の流れを汲み、歴史研究家、作家である明智憲三郎(けんざぶろう)氏にも特別にコメントを頂いた。明智さんは明智光秀について歴史捜査(研究)を行っているが、織田信長についても研究し、書籍も出版している。「『信長公記』から、信長は『天下の面目』を気にしていた人物であったことがわかる。王様気質ではあったものの、世の中からの信頼について気遣ったのは、王様としてなすべきことがあると考えていたのであろう。これまで、史実に基づかない軍記物や歴史小説の影響で、秀吉によって都合のいいように書き換えられた信長像が世の中のイメージとして形成されてきたが、研究を進める中で、信長は常に勉強し、先を読む力がある、頭脳明晰で冷静な人物であることがわかってきた。その意味で、今回の鑑定結果は納得が行くものである。」
※今回の原稿作成にあたり、明智憲三郎さんの書籍、講演内容を参考にさせて頂きました。
「鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス」このイメージが世にはびこっているが、本当の信長は、冷静沈着、慎重な人物だったのだろうか?「死のふは一定(いちじょう)、偲(しの)び草には何をしよぞ、一定語り起こすよの」これは、幸若舞・敦盛と並んで、信長がこだわりを持っていた小唄である。意味は、「誰でも死ぬと決まっている。自分を偲んでもらうものには何を遺そうか。後世の人々は語り起こしてくれるだろう。」世間の評判を気にかけ、限られた時間の中で、自分ができること、為すべきことについて問い続けていた信長。戦国の世で、織田家嫡男として生まれた信長の強い志を感じる。