日本海海戦を勝利に導いた、意外な秘密兵器の数々
日露戦争の真実 日本海海戦の戦略を読み解く第5回
連合艦隊には日本海海戦を勝利に導いた新兵器の数々があった。その代表的なものは下瀬火薬と伊集院信管である。下瀬火薬は、海軍技手の下瀬雅允が明治26年(1893)に開発したもので、ピクリン酸を使用した破壊力の大きな黄色火薬である。この火薬の効果を高めるために採用されたのが、伊集院五郎少将が明治33年(1900)に開発した触発信管の伊集院信管である。この信管はマストに触れただけでも爆発することから榴弾向きだった。問題は信管が過敏すぎて砲身内で自爆する筒発事故の危険性があったことである。黄海海戦では三笠の後部主砲が自爆し、日本海海戦でも巡洋艦日進などで事故が起きている。
日本海海戦は情報戦の勝利でもあった。秋山真之が上申して実現した三六式無線電信機は世界トップレベルの通信力を誇り、バルチック艦隊の発見報告や戦闘中の状況把握などに威力を発揮した。
また、国際電報用の海底ケーブルが敷設されるなか、日本軍は独自の軍用水底(海底)線を日本海に敷設し、無線、海底ケーブル、地上有線を使った画期的な情報ネットワークを構築。朝鮮半島などからの電信が対馬経由で大本営へ送られた。秋山の「本日天気晴朗ナレドモ…」の有名な電文も鎮海の仮設電信局から海底ケーブルを利用して送られた。
このほか海軍の宮原二郎が開発した宮原式汽缶(新型ボイラー)は軍艦の馬力を高めた。秋山は「日本海海戦は最初の30分で勝負が決まった。しかし、その30分のために10年の準備がいる」と語っているが、日本の技術の粋もまた、この30分のために用意されたのである。