真田に対抗した、もうひとつの“赤備え”井伊直孝の大坂冬の陣
大河ドラマ『真田丸』で登場したもうひとつの赤備え、井伊直孝を先取り紹介
父直政と同じ、激しい一面を持つ
直孝は父直政の気質を受け継いだ猛将であった。幼名を弁之助といい上野国後閑の庄屋・萩原図書のもとで育てられ、佐和山(彦根) に父を訪ねたことがあった。ところが父が面会を延期したことに苛立っていた彼は、面前を横柄な態度で通った若党を「無礼者め」といって手討ちにした。その時に用いた刀が直政の授けたものだと聞いて、父は「よくやった」と五千石を授けて上野国に返したという。
幼い時から戦争ごっこに興じ、粗暴なところがあった直孝が、少年の身で人を殺めたことを、父直政が褒めるあたり、この父子は間違えなく同じ気質の持ち主であった。
直孝は庶子であるがために、はじめ井伊家を離れた幕府直属の家臣としての道を歩む。父直政が死んだ時に十三歳だった直孝は、翌慶長八年(一六〇三) 、家康・秀忠に拝謁し、家康の命令によって秀忠に仕えた。
慶長十五年二月、家康・秀忠父子が三河田原(愛知県田原市) で催した狩りに随行した際に、永井尚政の部下の士・中川八兵衛と江戸人の岡部八十郎が武闘を演じた。遥か遠くで目撃した直孝は、一目散に馬を飛ばして走り寄り、馬から飛び降りると、青竹の杖を手にして二人の中に割って入り、これを鎮めて注目を集めた。この年の七月、上野国白井の地(群馬県渋川市白井) 五千石を加増され一万石になり、江戸城警備の要・大番頭となる。ここに先に父から近江でもらった五千石を加えると一万五千石の高禄を食み、掃部頭と称すようになる。
『名将言行録』は直孝について「長身で体はたくましく、顎と頬の鬚(ひげ)がまるで戟(ほこ)のようだったので、人は夜叉掃部(やしゃかもん)と称した。武事に錬達しており、統率力もあって、武士は深く心を寄せていた」という。
直孝は十六歳の頃から、毎朝、刀・脇差の目釘を検査し、刃をぬぐって磨き、広間に出て、持ち槍を自ら抜いて、当番の者に刃先を拭わせることを六十余歳まで怠らなかった。
また後の事だが江戸藩邸には乗馬用の馬のほか、小荷駄百頭をいつも繋いでおり、一頭が死ねばすぐ補充して、戦いへの対応を怠らなかった。
そんな直孝だったから、大御所家康と将軍秀忠の信頼を勝ち得えた。そしてついに脚光を浴びる時がきた。
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