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平安時代から続く装束づくり 「現在まで継承できたのは職人の強い意志のおかげ」

第6回 松下装束店 山本正穀さん

 服飾の歴史は、その時代に生きた人々の暮らし、社会を物語る。時代という変化のなかでも、平安時代から現代にいたるまで受け継がれている装束や調度品がある。神社などで働く神職が身に着けるも装束や神事やお祭り、様々な儀式で用いられる数多くの道具だ。いずれも職人の手仕事で生まれ、長い歴史のなかで受け継がれてきた、技がそこにはある。
 今回、Kさんが訪れたのは、京都にある風俗博物館。日本で生きた人々の暮らしに触れられる場所だ。そこでお会いしたのが元宮内庁主席主殿長の岡本和彦さんだった。

時代、時代の生活に合わせて、
変化する装束

 

K そもそも装束というのは何なのでしょうか?
岡本 装というのは着物を表していて、束は束ねるとか、重ねるという意味なんです。平安時代になると着物を何枚も重ね、それを束ねるように帯を締める、そこで装束という言葉が出てきたんですね。特に男性の正服は、束帯と呼ばれることもあります。いわゆる我々が身にまとっている洋服、着物のことなんです。
 

 

K ここにはさまざまな時代を生きた人たちの姿が並んでいますね。
岡本 はい。なかでも平安時代の装束はその後、長い間日本で受け継がれています。
K 装束だけでなく、当時の家の模型のなかに、人形があり、面白いですね。
岡本 この建物は神殿作りと言います。日本独特の作りです。高床式の建物です。基本、床は板敷きなんですが、必要なところでは畳が敷かれています。そして、部屋ごとの壁というものがほとんどなく、ふすまや屏風などで仕切るという形です。
K 中国などの大陸の影響もあるのですか?
岡本 そうですね。しかし、遣唐使が廃止されて以降は、日本独自の文化が生まれています。たとえば、装束を重ねるときに、四季に応じた様々な色を使うようになり、その色合いは襲の色目(かさねのいろめ)と呼ばれています。
 

寒さをさけるために部屋を仕切る壁代。

K 当時の冬も寒いですよね。
岡本 寒いですよ。だから、蔀度(シトミド)という板戸を閉めます。そして、壁代があります。御簾の後ろに壁代をかけて風が通らないようにするんです。御簾は中が見られないために夏も冬も閉まっていますが、夏は壁代をとり、風が抜けるようにします。
K 服装にも違いはありますか?
岡本 冬になると綿の入った着物を着るんです。だから、装束が分厚くなっていくんですよ。

 

K 装束を身に着けた実物大の人形は迫力がありますね。そして、美しい。これは十二単ですね。
岡本 この装束の色目は花橘なので、春から夏にかけての装いですね。
K 襲の色目で季節がわかるんですね。
岡本 四季ごとにいろいろな名のついた襲の色があり、どんな色を重ねるかが決まっているんですよ。

K 男性とは違う?
岡本 男性はあんなにたくさん着ませんからね。平安時代が終わり、鎌倉時代が始まるにつれて、武家、サムライが台頭してくるようになると、また装束にも変化が生まれます、武家の夫人は宮中とは違い、装束も簡単なものに変わるんです。
K 公卿の女性は変わらずに平安時代のように重ねた着物を着ているというイメージがあるんですが。
岡本 そうですね。しかし、明治時代になると宮中の女性たちはこういう袿袴姿(女官袿袴礼服)。外も歩けるように袴が短くなっているんです。そして、履物も履きやすい形へと変わっていきました。
K その時代、時代の生活に合わせて、装束が変化していくのは面白いですね。

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寺野 典子

てらの のりこ

1965年兵庫県生まれ。ライター・編集者。音楽誌や一般誌などで仕事をしたのち、92年からJリーグ、日本代表を取材。「Number」「サッカーダイジェスト」など多くの雑誌に寄稿する。著作「未来は僕らの手のなか」「未完成 ジュビロ磐田の戦い」「楽しむことは楽じゃない」ほか。日本を代表するサッカー選手たち(中村俊輔、内田篤人、長友佑都ら)のインタビュー集「突破論。」のほか中村俊輔選手や長友佑都選手の書籍の構成なども務める。


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