義経=チンギス・ハン説を唱えたのは、あの有名な「外国人医師」だった!
「源義経北行伝説」の謎 第5回
清朝の祖、チンギス=ハン…
幕末には、義経の活躍は世界規模に!
18世紀も後期になると、今度は「清朝の祖は義経」という説があらわれる。天明三年(1783)に国学者の森長見があらわした『国学忘貝』は「ある儒者からの伝聞」として、清から渡来した『古今図書集成』一万巻中の一書に『図書輯勘(としょしゅうかん)』があり、その乾隆帝自筆の序文に「清朝の祖先は義経である」と明記されている、との話を記している。
この『図書輯勘』なる書籍が実在しないことは、後に蘭学医桂川中良によって確認されたが、時すでに遅く「義経清祖説」は先の『金史別本』と同様、巷間に広く伝わっってしまった。だいぶ後のことながら、並木正三の狂言『和布苅神事』天保十三年(1841)で義経家臣の常陸坊海尊が「義経は蝦夷から千島に渡り、唐土高麗を攻め平らげ四百余州に清和源氏の名を輝かさん、清朝の清は清和の謂に他ならぬ」と見栄を切っているのもそのような事情からであったろう。
そして19世紀、幕末にいたって「義経=成吉思汗説」が登場する。この説をはじめてあらわしたのは、かのシーボルトで、著書『日本』(1832~59)においてであったという。義経を蝦夷島の発見者と位置付けたうえで、テムジンが愛用した長弓は日本海賊の武器だったなどとして、義経がジンギスカンになった可能性を強く主張した。
一方、同時期の読み本『義経蝦夷軍談』嘉永三年(1850)の序文をみると、北海道から大陸に渡った義経が、名を鐵木眞(テムジン)或いは成吉忠汗と改めて「韃靼(ダッタン)を従え、西遼・西夏・金国を滅し、一子清義臣を帝位に即け、国号を元」と改めた。これは「源」と同音であるからだ、と断定している。かつまた後に、元は明によって滅ぼされたが、子孫が韃靼に逃れついに明を滅ぼし国号を「清和」から取って「清」と改めて、「世祚万々歳」と締めくくっている。