第一次大戦後のドイツ軍の合理的な戦車開発
「ロンメル親衛隊」、海岸に突破せよ! ~Dデー当日に実施された唯一のドイツ軍戦車部隊の反撃とIV号戦車~ 第5回
合理的なドイツの戦車開発
【前回はこちら:ノルマンディー地区に展開したドイツ軍3個装甲師団の戦力の高さ】
連載の前回に記したごとく、北アフリカで壊滅しフランスで再興された「ロンメル親衛隊」ことドイツ軍第21装甲師団に主力として配備されたのはIV号戦車だが、ここで、同戦車とドイツの戦車開発についてを簡単に説明しよう。
第一次大戦に敗れたドイツは、講和条約であるヴェルサイユ条約によって軍備を厳しく制限されたが、戦車もその対象となり開発、生産、保有のすべてを禁じられた。しかしドイツ軍部は国外で戦車の研究を続け、1935年3月16日にヒトラーが再軍備化を宣言し同条約を破棄すると、満を持して速やかにI号戦車とII号戦車を戦力化。
このI号戦車とII号戦車について、戦間期のドイツにおける戦車の習作だとか訓練用だとかいう意見もある。たしかに第一次大戦後のドイツで初めて量産された戦車であるI号戦車は、ドイツ装甲部隊黎明期の練成と、製造メーカーの戦車生産のノウハウ獲得に大きく貢献した。だが同国の戦車開発は、当初からシステマチックに考えられていたものだった。それは、主力戦車とそれを支援する火力支援戦車の2車種でワンセットという発想だ。
この考え方に当てはめると、機銃装備のI号戦車が主力で、対戦車用の徹甲弾も対人用の榴弾もどちらも撃てる20mm機関砲装備のII号戦車が火力支援用ということになる。しかも、当時はまだ戦車の主任務は対戦車戦闘ではなく歩兵陣地突破と考えられていたので、対人殺傷効果が高い機銃装備のI号戦車と、機銃では対応できない敵の戦車や堅固な陣地などに遭遇したら20mm機関砲装備のII号戦車が火力支援するという両戦車の組み合わせは、理にかなったものである。
さらにドイツ陸軍は合理的だった。主力戦車が性能面で陳腐化したら、それまでの火力支援戦車を主力戦車へと下位シフトさせ、より強力な火力支援戦車を新たに開発するということにしたのだ。こうしてI号戦車はII号戦車にその座を譲り、それまでのII号戦車のポストには、新しいIII号戦車が収まった。
もちろん、「追い出された」I号戦車も戦車としては陳腐化していても、やはり合理的見地から自走砲やそのほかの装軌式特殊車両のベースとして活用された。
やがてII号戦車もI号戦車と同様の道を辿り、下位シフトによってIII号戦車が主力になると、以前のIII号戦車のポストにはIV号戦車が就いた。つまりIV号戦車は、当初はIII号戦車を火力支援する目的で開発されたのである。
もっとも、このように文字にすると各号の戦車の逐次交代劇はいかにもスムーズにいったかのように思われるかも知れない。だが現実には、戦時下のドイツ装甲部隊の急速な膨張に戦車の生産が追いつかず、本来なら交代のうえ第一線部隊からは引き揚げられるべき旧式車種が混用され続けるケースが普通だった。
このような事情をご理解いただいたうえで、さて、IV号戦車とはどんな戦車だったのだろうか?