ノルマンディー地区に展開したドイツ軍3個装甲師団の戦力の高さ
「ロンメル親衛隊」、海岸に突破せよ! ~Dデー当日に実施された唯一のドイツ軍戦車部隊の反撃とIV号戦車~ 第4回
再興された「ロンメル親衛隊」
【前回はこちら:ノルマンディー上陸作戦前、のちの戦局に重大な影響を及ぼすこととなったヒトラーの“ある発言”】
のちに連合軍が上陸することになるノルマンディー地区には、第21装甲師団、SS第12装甲師団「ヒトラー・ユーゲント」、パンツァーレーア(教導装甲師団)の3個装甲師団が展開していた。そして第21装甲師団が「ノルマンディー地方からパリへの転車台」とも称されるカルヴァドス県の県都カーンの近傍、「ヒトラー・ユーゲント」はファーレーズの近傍、パンツァーレーアがアランリンの近傍にそれぞれ駐留。
このうち、「ヒトラー・ユーゲント」は歴戦のSS第1装甲師団「ライプシュタンダルテ・アドルフ・ヒトラー」から抽出された基幹要員に、師団の愛称のごとくヒトラー・ユーゲントのティーン・エイジャーを下士官兵として配した新設の装甲師団で、同師団の情報を入手した連合軍は少年が多い戦闘未経験の部隊であることから「ベビー師団」と蔑称していた。ところがのちにこの「ベビー師団」が、ノルマンディーを巡る戦いで鬼神もかくやの戦いぶりを示すことになる。
またパンツァーレーアは、「レーア(ドイツ語で「教導」の意味)」の名を有する戦車や自動車の教導部隊を集成して1943年12月末に創設された。その目的は、戦車及び装甲戦闘車両乗員と装甲擲弾兵の中核となる要員の実戦経験を兼ねた養成という、練成部隊と実戦部隊の一石二鳥を狙ったものだった。師団将兵の中核は、それぞれの分野における教官職の将校や下士官で、ドイツ陸軍でもエリート中のエリート部隊といっても過言ではない優秀な装甲師団である。
第21装甲師団は、やや複雑な「身の上」を持つ装甲師団だった。1941年初頭、ドイツ陸軍は急増する装甲師団へのニーズを受けて、既存の第3装甲師団から抽出した将兵を核に据えた第5軽師団を編成。同師団は北アフリカで苦戦中の盟邦イタリア軍を支援するべく同年2~3月にかけてリビアのトリポリに送り込まれ、ロンメルの隷下に入った。そして8月1日、第21装甲師団へと改称された。
以来、北アフリカに派遣された最初のドイツ軍装甲師団として常にロンメルの下で戦ったが、1943年5月12日、北アフリカの枢軸軍がチュニジアで降伏し、それにともない事実上壊滅。だが、地中海を渡らずイタリアに残っていた同師団の後方諸部隊と、同年1月にフランスのヴェルサイユで編成された第100戦車連隊などを集成し、同年7月5日、フランスのレンヌで再興された。
当初、師団の戦車戦力の核である第100戦車連隊は、鹵獲(ろかく)したフランス製戦車を主力とした二線級の戦車部隊であった。しかし1944年5月に第22戦車連隊と改称され、それにともなって主力戦車もIV号戦車へと更新された。
こうして第21装甲師団は再びロンメルの隷下となったが、北アフリカ戦で轟いた勇名ぶりもあって、同師団は連合軍将兵から「ロンメル親衛隊」の綽名で呼ばれた。