サッチーの一言が私の背中を押し続けた
急逝したサッチーとの思い出を含め、 野村の哲学を育んだエピソードの数々。
急逝したサッチーとの思い出を含め、
野村の哲学を育んだエピソードの数々。
<人間の条件について>」
「人は何のために生まれてくるのか?」
「何のために社会に存在しているのか?」
それは「世のため人のため」ということに尽きる。
人は一人で生きていくことなどできない。むしろ、世の中や人に生かされているといったほうが正しく、常日頃から、「自分は誰かに支えられて生きている」という感謝の気持ちを持って、行動していかなければならない。それこそが、人間が生きるための条件なのである。
言葉が人生を変える。
亡き妻サッチーの一言が私の背中を押し続けた。
「年齡を重ねるほど、自分に対して直言してくれる人がいなくなる。
実は私にはひとりいる。いや、いた。それが、妻の沙知代である」
【目次】
序章 私はもともと弱い人間である
第1章 人間3人の友を持て
第2章 夢とは生きる力である
第3章 覚悟に勝る決断なし
第4章 中心なき組織は機能しない
終章 言葉は信頼を得るための武器である
以下<序章 私はもともと弱い人間である>より抜粋
南海ホークスを解任された私は、今後の身の振り方について早く考えなければならなかった。
ただ、スキャンダルの影響が予想以上に大きく、予定されていた日本シリーズのゲスト解説の話もなくなり、
「俺はもう、プロ野球の世界で生きていくことはできないのか……」
とも思い始めていた。そんなとき、
「大阪なんて大嫌い。東京に行こう!」
と言い出したのが沙知代だった。
自動車にわずかな荷物を載せ、東京へ向かうこととなった。
まさに裸一貫での出発だった。
しかし、私は生まれてこのかた関西で暮らしていた人間だっただけに、
東京に何かアテがあるわけではなかった。
「これからどうやって生きていけばいいんだ、俺は。お先真っ暗だ……」
マイナス思考の私は心の底からしょげまくり、自動車を運転して東名高速を走っているときも、ひとりで愚痴ばかりこぼしていた。
そんなとき、沙知代が大きな声で口にしたのが、
「なんとかなるわよ」
という言葉だったのである。
野村克也
Nomura Katsuya
1935年、京都府生まれ。京都府立峰山高校を卒業し、1954年にテスト生として南海ホークス(現・福岡ソフトバンクホークス)に入団。1965年に戦後初の三冠王になったのをはじめ、MVP5回、首位打者1回、本塁打王9回、打点王7回、ベストナイン19回、ダイヤモンドグラブ賞1回などのタイトルを多数獲得した。1970年からは選手兼任監督となり、その後、ロッテオリオンズ、西武ライオンズに移籍。1980年に45歳で現役を引退、解説者となる。1989年に野球殿堂入り。1990年には、ヤクルトスワローズの監督に就任し、4度のリーグ優勝、3度の日本一に導く。1999年から3年間、阪神タイガースの監督、2002年から社会人野球のシダックス監督、2006年から東北楽天ゴールデンイーグルスの監督を歴任。2010年に再び解説者となり、現在、多方面で活躍中。