保守的な美術界から叩かれても大成 横山大観はいかにして巨匠となったか
個人美術館で辿る日本人画家の生涯①
◆数々の名作を生んだ自身が手掛けた自宅兼画室
横山大観は、1908年から東京・上野池之端に住み始め、19年に京風数寄屋造りの自宅兼画室を建てた。以来、大観は58年に90歳で亡くなるまで、ここで暮らしながら多くの作品を制作した。現在、この邸宅と庭園は、横山大観記念館として一般公開されている。
「現存する邸宅は、旧宅が東京大空襲で焼失したため、54 年に再建されたもの。実際には大観は4年しか住んでいませんが、旧宅とほぼ同じ形で再現されています」と説明するのは、同記念館・主任学芸員の佐藤志乃さん。
もともと、大観は建築士を志していたこともあって、邸宅や庭は自身がデザインを手掛けており、そこには彼の趣味嗜好が横溢している。デザインのみならず建築技法、使用している木材やガラス、庭の石の配置や植え込みなど、非常に凝った造りとなっている。
「大観は華美なものを嫌い、質実剛健を好んだので、自宅も一見、質素に見えますが、実は建材などには非常にこだわっています。客間に張られた大きなガラス窓なんて、戦後間もない時期には手に入れにくかったはずですからね」。
大観が暮らした空間に流れるのは、西洋的なものを一切排した和の風情。西洋画を嫌っていたという逸話からもそれは窺えるが、大観は決して頑迷だったわけではない。そもそも、彼が確立した「朦朧体(もうろうたい)」という技法は、西洋画の影響を受けたものだ。だが、この技法は革新的であったが故に、当時の画壇で軋轢を生むことになる。
師と仰ぐ岡倉天心が主宰する日本美術院の創設に参画した大観だったが、その美術院の活動の中で、「空気を描く工夫はないか」という天心の問いかけに応えたのが朦朧体だった。朦朧体は線描を抑えた独特の没線描法だが、画壇の守旧派から猛烈な批判を浴び、国内での活動が行き詰まってしまう。やむなく、海外へ渡った大観はアメリカやヨーロッパ各国で個展を開くと、これが成功を収める。
欧米での高評価に伴って、大観の国内での名声も高まり、07年から始まった文部省美術展覧会(文展)の審査員に就任するまでになる。だが、しがらみにとらわれずに厳正な審査を行うことが運営側の不興を買い、第8回の文展を前に審査員を解任されてしまう。妥協を許さない性格が災いしたのか、斯界(しかい)の守旧派とはつくづく折り合いが悪かったようだ。
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