伊達政宗の戦国史研究
外川淳の「城の搦め手」第78回
『歴史人』でも戦国武将のライバルに関して特集を組むが、「BEST TIMES」を利用し、伊達政宗が戦国史を研究することにより、強敵を打破したという説について考察を加えてみたい。
実弟殺害など、共通点の多い織田信長の戦略を模倣しながら奥羽制覇へと邁進。
城を攻略したとき、撫で斬りを実行することは戦国時代にタブーとされた。
城内に立て籠もる老若男女を皆殺しにすると、たとえ城を攻略しても、人口の減少により、新しく獲得した領地での生産性が低下することから、撫で斬りは無謀な策とされたのだ。
その一方では、敵対勢力への絶縁など、自信の意思を強烈に示すための手段として撫で斬りは選択された。
織田信長による比叡山焼き討ちや、長嶋一向一揆殲滅は、自身に刃向う勢力に対する見せしめとしての撫で斬りの典型例といえる。
伊達政宗は、小手森城を撫で斬りにしたのをはじめ、蘆名氏を滅亡させたのち、奥州有数の古刹である恵日寺を焼き討ちにすることにより、自身の力を誇示している。
政宗は、信長や秀吉が強敵を倒したステップを研究し、応用することにより、奥羽の覇者へと成長した。
政宗は、戦国乱世の表舞台に登場する時期が遅かったことから、奥羽制覇の時間的余裕がなく、天下人秀吉への屈服を余儀なくされた一方、その分、戦国史を十分に研究でき、成果を活用できたとも想定できよう。
成島八幡宮の神職の家に生まれた片倉は、修験者を利用して全国各地から情報を収集。現在進行形だけに限らず、戦国史全般の情報を収集して分析。軍師として主君政宗の奥羽制覇に貢献した。
以上の説は、仙台郷土研究会副会長だった逸見英夫先生の論考を継承したものであり、私は今は亡き「心の師」への追慕の念も含め、この説を今後も唱え続けたいと思う。