伊賀から伊勢へ⑩鳥羽城(参)
季節と時節でつづる戦国おりおり第392回
慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いで嘉隆は石田三成の西軍に味方しましたが、息子の守隆が徳川家康の東軍についたため、戦後守隆が父の助命を嘆願し許される運びとなっていました。
ところが、答志島に蟄居していた嘉隆はその知らせが届く前に家臣のすすめで自害してしまい、首塚・同塚が同島に残っています。そこにも行きたかったのですが、なにせ船で渡らなければならないのでままなりません。
写真の正面が答志島です。首は南の山頂付近に埋められたとのことで、残された人々は嘉隆に死んでも鳥羽城を見守ってもらいたかったということなのでしょう。
『鳥羽志摩新誌』によると、嘉隆は観音堂(大山祇神社のことでしょうか)を鳥羽築城の際に移築したことや義父の領地を奪ったこと、伯父を暗殺したことなどの報いとして悲しいすれ違いのあげくの死を迎えることとなり、嘉隆に切腹をすすめた家臣・豊田五郎右衛門は、「せっかく父の赦免を獲得したのに」と激怒した守隆によって竹ノコギリによる首斬りの刑に処したそうです。
その後の鳥羽城は守隆が受け継いだわけですが、石高は嘉隆時代の3万石から5万6000石に増えています。寛永9年(1632)に守隆が死去したあと御家騒動が起こり、翌年、本家が三田3万石、分家が綾部2万石に移されたことは以前述べました。鳥羽城は幕府譜代の内藤家のものとなっています。