その後の応仁の乱—京極家と六角家の同族争い
シリーズ「応仁の乱が起こした名家没落と下剋上」⑥
■近江をめぐる果てしない同族争い
六角氏と京極氏は、もともとは同じ佐々木一族で、それぞれ近江の南北、すなわち江南と江北に割拠し、近江一国における覇を競うようになっていた。なお、佐々木一族の嫡流は江南の六角氏であり、近江の守護職と佐々木氏の惣領職を幕府から認められている。
こうした状況のなか、応仁・文明の乱がおこると、江北の京極持清は東軍について京極氏の勢威拡大を目指す。必然的に、江南の六角高頼は、京極氏に対抗するため西軍についたのである。
近江守護であった六角高頼が西軍についたことで、幕府は、六角高頼の従兄弟にあたる六角政堯を六角氏の家督とし、近江守護に補任した。しかし、六角政堯には、六角高頼に対抗するだけの権力がなく、近江一国はおろか江南すら押さえることができない。
そのため、文明元年(1469)、幕府は江北の京極持清に近江守護職と佐々木氏の惣領職を認めた。こうして、鎌倉時代以来初めて、京極氏が佐々木一族の惣領家になったのである。
しかし、翌文明2年(1470)、京極持清が没したことで、近江国内の争乱は拡大していくことになる。京極持清の嫡男勝秀はすでに亡くなっていたため、勝秀の嫡男孫童子丸が継ぐが、わずか1年で早世してしまう。そのため、京極氏では、家督をめぐる争いがおこり、京極持清の3男政経が東軍につくと、京極持清の孫高清が叔父にあたる政光の支援を得て西軍につき、一族が分裂することとなったのである。
この間、六角氏の嫡流であった六角高頼は、近江の守護職と佐々木氏の惣領職を失いながらも、権力を盤石にしていった。そのため、応仁・文明の乱が終わるころには、高頼が江南における実質的な支配権を確立していたのである。
(次回に続く)