首里城火災…。過去にも焼失した旧国宝たち
戦火で燃えた歴史的建造物たち
――琉球のシンボル・首里城火災
「涙が止まらない」と地元の人が語るとおり、沖縄の歴史と誇りを象徴する建造物であり、日本が誇る世界遺産でもある建物の焼失は、日本人の心に響くものがあった。
日本の歴史のなかにも、このように貴重なものが焼失することが多々あった。本記事では、太平洋戦争時に焼失してしまった貴重な建造物をピックアップしていく。(『一個人』2017年9月号 より引用)
【焼失した旧国宝】本来は国宝に指定されるべきだった名建築
■江戸時代の建築技術と意匠の枠を結集
『増上寺・徳川家霊廟』1945年/焼失
文化財保護法施行によって指定される国宝は、1951年(昭和26)に第一弾として重要文化財に指定された旧国宝の中から選ばれたものである。だが、戦火による焼失で本来、国宝に指定されるべきだった名建築も多い。増上寺の徳川家霊廟も、その1つだ。
徳川家霊廟は、東京・芝の増上寺にある徳川将軍家と歴代将軍の墓所。霊廟は東京都の寛永寺と増上寺、栃木県の輪王寺にある。江戸時代の華麗な建築技術と意匠の枠を結集した建築群として、日光東照宮と並び称されている。だが、寛永寺と増上寺の霊廟は、45年(昭和20)の東京大空襲で大部分の建築が焼失した。
■空襲で新国宝への道が閉ざされた旧国宝
『名古屋城』1945年/焼失
名古屋城は大阪城、熊本城とともに、日本3大名城に数えられる。
建造物は1930年(昭和5)に、本丸御殿障壁画は42年(昭和17)に当時の国宝保存法に基づき、旧国宝に指定された。戦時中は空襲から金の鯱を守るために地上へ下ろしたり、障壁画を疎開させたりなどしていたが、45年(昭和20)の名古屋空襲によって、あえなく焼失。
戦火を免れた三之丸などは現存するが、焼失した天守は59年(昭和34)に再建。復元された金の鯱とともに名古屋市のシンボルに。
■中国と日本の築城文化が融合した独特の建築様式
『首里城』1945年/焼失
14世紀末に築城されたと言われる首里城は、沖縄県でも最大規模の王城だった。沖縄を450年間にわたって統治していた琉球王国の興隆を伝える王城は1933年(昭和8)、旧国宝に指定。だが、45年(昭和20)の沖縄戦と戦後の琉球大学建設で、全て破壊されてしまう。
その後、92年に正殿などが旧来の遺構を埋め戻す形で復元され、2000年に「琉球王国のグスク及び開運遺産群」として世界遺産に登録された。だが、登録は「首里城跡」で、復元された建物や城壁ではない。
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