同族争いの結果、所領を失ってゆく京極家と六角家
―応仁の乱が起こした名家没落と下剋上
シリーズ「応仁の乱が起こした名家没落と下剋上」⑧
■同族争いの結果、所領を失ってゆく京極家と六角家
京極高清が近江の江北を統一をしたが、今度は、京極高清の長男高広と次男高吉が家督争いをおこし、高清・高吉父子は、高広を押す浅井亮政ら国人によって追放されてしまう。
こうして、江北では浅井亮政が戦国大名化を遂げるのである。
そして、そのころには、出雲・隠岐は守護代の尼子氏に奪われてしまう。
飛騨は国司姉小路氏の名跡を継いだ三木氏に奪われてしまっていた。
ここに、京極氏はすべての領国を失うことになったのである。
これに対して六角氏は、室町幕府の管領細川氏に通じて勢力を拡大し、六角高頼の子定頼、定頼の子義賢の時代に全盛期を迎えた。
しかし、義賢の子義治が重臣を暗殺したことで家中の動揺が広がり、観音寺騒動とよばれる争いに発展し、その結果、六角氏は弱体化していく。
そして、永禄11年(1568)、浅井亮政の孫にあたる浅井長政と同盟した織田信長が足利義昭を奉じて上洛したとき、六角義賢・義治父子は信長に抵抗したが敗れ、滅亡した。
なお、このときは信長に味方した浅井長政も、天正元年(1573)、信長に居城の小谷城を攻められて落城し、近江一国は信長の支配下におかれることとなったのである。
(次回に続く)