名門畠山家、下剋上の波に飲まれる
シリーズ「応仁の乱が起こした名家没落と下剋上」⑨
■骨肉の家督争いに嫌気がさした民衆は山城国一揆を起こす
応仁・文明の乱の終結を機に、畠山義就は、畠山政長の領国であった河内・大和を平定し、さらには山城への侵攻も試みた。文明17年(1485)、政長が南山城に軍勢を派遣したことで、両軍は60余日にわたって対陣する。
ところが、南山城の国人が国一揆を結んで両軍に撤退を勧告したため、政長軍は北山城に、義就軍は河内に引き上げた。いわゆる山城国一揆である。
延徳2年(1490)に畠山義就が没すると、子の義豊が跡を継ぐ。このころ、10代将軍足利義材に重用されていた政長は、義豊追討を画策し、明応2年(1493)、将軍義材による親征が実現した。
義材は政長とともに義豊が籠もる河内高屋城を包囲したが、そのころ京都では、義材と対立する細川政元が堀越公方足利政知の子義澄を新将軍に擁立するという明応の政変をおこしており、義材と政長は、細川政元が派遣した大軍に包囲されてしまう。
こうして、畠山政長は子の尚慶を領国の紀伊に逃して自害し、義材は、捕らえられて京都に幽閉された。
畠山政長の敗死により、畠山義豊に畠山氏の惣領職と河内・紀伊・越中の守護職が認められたが、家臣等が対立し支配は安定していなかった。明応6年、紀伊の畠山尚慶が河内に侵攻して義豊を山城に追うと、義豊は2年後の明応8年、細川政元の支援をうけて河内に侵入したが敗死する。逃亡した義豊の子義英は、細川政元の支援を得て再び河内に侵攻し、尚慶を紀伊に追放した。
(次回に続く)