細川氏の家督争いと将軍擁立に翻弄され、滅びる畠山氏
シリーズ「応仁の乱が起こした名家没落と下剋上」⑩
■応仁の乱を招いた畠山の家督相続は守護代に乗っ取られる時代へ
明応の政変(1493)による畠山政長の敗死により、畠山義就の子・畠山義豊に畠山氏の惣領職と河内・紀伊・越中の守護職が認められたが、家臣等が対立し支配は安定していなかった。
明応6年(1497)、紀伊に逃れていた畠山政長の子の畠山尚慶が河内に侵攻して義豊を山城に追うと、義豊は2年後の明応8年、細川政元の支援をうけて河内に侵入したが敗死する。逃亡した義豊の子義英は、細川政元の支援を得て再び河内に侵攻し、尚慶を紀伊に追放した。
永正元年(1504)、畠山義英と畠山尚慶は、それぞれ河内を南北にわけて統治するという条件で和睦した。しかし、この和睦を認めなかった細川政元に攻められた義英は、尚慶を頼って落ちのびることになり、没落してしまったのである。
しかし、その政元は妻帯することなく修験道に傾倒しており修行にはげむありさまで、実子はおらず、養子として関白九条政基の子澄之を迎えていた。さらに、家督を一族からと考える家臣の意向も受けて、阿波守護細川氏から細川成之の孫にあたる細川澄元も養子として迎えている。こうしたなか、澄之の補佐役であった香西元長らには、澄之が廃されるのではないかという不安があったのだろう。家督が澄元に譲られる前に、政元を亡き者にしようと考えたのである。
永正4年6月23日、政元は自邸の湯殿で行水をしていたところ香西元長らによって暗殺されてしまう。
細川家の京都での政争の中、生き残った畠山尚慶は、河内を中心に畠山氏の勢力を回復していく。しかし、家督争いにあけくれている間に守護代の遊佐長教が台頭しており、尚慶の子稙長は、長教に追放されてしまう。天文20年(1551)に遊佐長教が刺客により暗殺されたことで、畠山尚順(尚慶の後の改名)の孫にあたる畠山高政が実権を復したが、それも束の間のことだった。永禄3年(1560)には、三好長慶に本拠の河内を奪われてしまったのである。
畠山高政は、足利義昭を奉じて上洛した織田信長に従い、河内南半国を安堵された。しかし、足利義昭と織田信長が対立すると、家督を継いでいた高政の弟昭高は義昭に従う。このため、天正元年(1573)、信長に従った家臣遊佐信教に殺害され、畠山氏はついに滅亡してしまったのである。
(次回に続く)