東国の新興勢力に繁栄をもたらしてくれた「ヤマト」建国
聖徳太子の死にまつわる謎㉟
■ヤマト連合の中心的存在は瀬戸内海の覇者・吉備だった
西国と東国の「ヤマトの王」に対する見方には差があった。
西国の首長層にとって、ヤマトの王は「われわれが立ててやっている」という意識があっただろう。また、「いつでもすり替えることができる」とも考えていたかもしれない。
一方の東国は、まったく意識が異なる。東国の発展をもたらしたのはヤマト建国であり、そのシンボルがヤマトの王である。東国の新興勢力にすれば、ヤマトの王は「繁栄をもたらしてくれた福の神」である。ここに、西と東の対立の図式が浮かびあがってくる。
ヤマト建国は、朝鮮半島→北部九州瀬戸内海→ヤマトにつながる航路の奪い合いに端を発していた(拙著『古代史謎解き紀行Ⅳ 瀬戸内編』 ポプラ社)。だから、ヤマト連合の中心的存在は、瀬戸内海の覇者・吉備だったのである。
その吉備は、五世紀半ばまで、ヤマトの王家を圧倒するかのような実力を見せ付けていた。ところが、五世紀後半、一気に衰退している。これはなぜかといえば、吉備は、瀬戸内海の海運を牛耳り、既得権益を振りかざす「守旧派」の代表格になっていたからだろう。つまり、ヤマトの王家のみならず、瀬戸内海を通じて先進の文物がもたらされる「東国」にとっても、吉備は邪魔になっていたはずなのだ。雄略天皇の改革事業の目玉は、このような吉備の実力を剥ぐことだっただろう。 そこで、気づくのは、雄略天皇と東国の思惑は、一致していた、ということである。
ひょっとして、雄略天皇を後押ししていたのは、このような「東国」だったのではあるまいか。
五世紀のヤマトと東国が、強いつながりを見せていたことは、考古学の指摘するところである。
埼玉県 行田市の稲荷山古墳から出土した鉄剣に銘文が刻まれていて、そこには、この地の豪族が、雄略天皇の杖刀人首であったことが、自慢気に述べられていたのである。杖刀人首とは、親衛隊長といったところだろうか。この鉄剣銘の意味するところは大きい。
五世紀後半の関東の「ひとり勝ち」と吉備の没落は、一本の線でつながってくるのである。守旧派の吉備は、新興勢力の「東国」の後押しを受けた雄略天皇の登場によって、没落したのだろう。
(次回に続く)