誇り、無念、後悔、怒り。轟沈する「大和」の最期で何を想ったのか? 戦後75年の今、日本人として考えるべきこと
戦艦「大和」の生涯~構想から終焉まで~⑤
◼️日本の惨敗だったマリアナ沖海戦
米軍の真の目的がサイパン島上陸だと気付かなかった連合艦隊は、5月10日「大和」「武蔵」にビアク島奪回作戦(渾作戦)を下令した。翌日両艦は第二水雷戦隊を引き連れて、まずバチャン島へ向かっている。
しかし2日後、米機動部隊がサイパン島沖に出現したため渾作戦は中止となり、「あ」号決戦に参加の「大鳳」を旗艦とする機動部隊と合同すべく、バャチン島を後にした。6月19日、マリアナ沖決戦の日、アウトレンジ戦法を採る機動部隊は、縦深配備の陣を取った。
本隊の「大鳳」前方100浬に、第三航空戦隊(千歳、千代田、瑞鳳)を配備した。「大和」「武蔵」「金剛」「榛名」と第二水雷戦隊は、三航戦護衛の任についたのである。
この日機動部隊は、ミッドウェーの戦訓を活かした三段索敵で敵空母を発見、理想のアウトレンジの距離から、総数243機の攻撃隊を出撃させた。戦果を待つ間に空母「大鳳」「翔鶴」が米潜水艦の攻撃で沈められている。期待の攻撃戦も、米軍のレーダー探知と戦闘機誘導による迎撃、コンピューター照準器とVT信管による対空砲火にほとんどが撃墜されてしまった。
翌日は逆に、米空母機に二航戦と三航戦が攻撃されている。この時、「大和」「武蔵」は、遠距離から敵機に対して主要対空弾を発射したが、戦果は不明。「千代田」「榛名」は被爆し、「飛鷹」は沈没した。
結局マリアナ沖海戦は、日本側の惨敗だったのである。さらに不運が追い打ちをかけた。海上が荒れていたため、「大和」以下に燃料が補給出来なくなったのである。駆逐艦は燃料在庫が30パーセントを切り、戦艦は50パーセントという状況の下、「大和」は沖縄の中城湾へ急速補給に向かった。かくしてマリアナ沖海戦でも、「大和」など戦艦活躍の場はなかったのである。
日本国内の燃料が不足していたため、連合艦隊は「大和」以下の艦隊にリンガ泊地への回航を命じた。「大和」は陸軍歩兵第百六連隊将兵と資材を搭載して、7月8日呉を出港、リンガ泊地へ向かったのである。
7月16日、「大和」を含む第二艦隊はリンガ泊地に到着、以後、捷一号(しょういちごう)作戦が発動される10月18日までのおよそ三カ月間訓練に明け暮れるのである。訓練は電探射撃に重点を置いた砲戦、特に夜戦を中心に行われた。数カ月前に心配された主砲弾着散布界も、この頃には縮小していた。
しかし実戦では、砲戦や夜戦でなく、海上航空攻撃に如何に対処するかが重要だったのである。
「大和」はマリアナ沖海戦に出撃するまで、トラック島での長期停泊を含め、航空機による空襲の恐ろしさを実感する機会がなかった。訓練はおのずと砲戦、夜戦に力が入れられた。マリアナ沖海戦の敗北後、日本は重大な局面を迎えていたのである。
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大和・復元図面 ①一般配置図 ②船体線図/中央切断図/防御要領図