【歴史上の人物を四柱推命で鑑定!第73回】 ~真田幸村~
アタマが良すぎて真面目で超慎重派! 関ヶ原では救われた命でも、大坂夏の陣での討死は本望?
歴史上の人物を四柱推命で鑑定! 第73回~真田幸村~
今回は、大阪の陣の活躍で家康に自害をも覚悟させたともいわれる、日本一の兵(ひのもといちのつわもの)、真田幸村(信繁)を四柱推命鑑定する。2016年のNHK大河ドラマ「真田丸」を経てさらに人気に拍車をかけた幸村。四柱推命鑑定の結果、頭がよすぎてバカが嫌いなことや、真面目で行動力がないのに思い切りがよい性格だったことが明らかになった。
真田幸村(信繁)
生年月日:元亀元年2月2日(1570年3月8日)
真田幸村の生年月日から命式表を割り出すと上記のようになる。この中で、性格を表す、通変星・蔵干通変星をわかりやすく円グラフに表すと下記のようになる。
知性…様々な分野の知識が豊富で、何かを学ぶことに喜びを感じる。頭の回転が速く、物事を論理的に捉えることが上手
行動力…頭で考えるよりも行動で結果を出す。未知の分野に挑戦する意欲が強く、交渉力や営業力を磨けば成功できる
人脈…さりげない気配りができて誰とでも仲良くなれる。サービス精神が旺盛でコミュニケーション能力も高く人を動かせる。
自立心…他人に依存することなく、自分が信じた道を突き進む強い精神性。リーダーシップを発揮しフリーで活躍できる。
遊び心…楽しいことを企画する等、生活に遊びを取り入れることが自然とできる。芸術面の才能があり、表現力が豊富。
これらを見ながら、幸村の特徴を考察していく。
〇知性60%! 頭がよすぎた!?
知性は、知識が豊富で論理的な思考が得意という星であるが、これを60%持っていた幸村は、非常に頭がよかったのだろう。「自星(じせい)」というプライベートな性格を示す大事な場所(日柱の蔵干通変星)に「偏印(へんいん)」を、その他に「印綬(いんじゅ)」を2つ持っている。「偏印」とは、アイディアやひらめきがあり、企画力に長けている星。「印綬」とは幅広い知識を持ち、いわゆる学校の勉強が得意な星。この両方の要素を持つ幸村は、常に物事を客観的に論理的に捉えていたことだろう。
父・真田昌幸とともに戦の名将として知られる幸村。関ヶ原の合戦の折、徳川秀忠を総大将とする3万8000の兵を相手にわずか2000の兵で立ち向かい、勝利を収めた第2次上田合戦は有名だ。上田にくぎ付けにされた徳川勢は、関ヶ原での本決戦に参戦できなかった。真田家は大勝利を収めながらにして、西軍は負けてしまうのだが……。
そんな幸村が父なしでやってのけた戦が、豊臣方に付いて戦った最後の大勝負「大阪の陣」。冬の陣では、はなから大阪城での籠城を主張する大野治長ら豊臣方首脳陣に対し、前哨戦で小さな勝利を収めた上で籠城する案を持ちかけるもあえなく却下。仕方なく大阪城に出城「真田丸」を作り、徳川方に大ダメージを与えた。ますます不利な状況となった夏の陣において、幸村が豊臣秀頼の出陣を望むも、秀頼の母・淀から却下される。さらに、家康の陣に夜襲を掛けることを提案するも、これも却下。その後幸村が綿密な計画を立てるも、功を焦る武将や不安を感じた兵に翻弄されてこれもうまく行かず……。最終手段、家康の陣にのみ狙いを定めて一発逆転勝利を狙う途中で、奇しくも戦死した。自分の渾身のアイディアが却下される度に豊臣方が苦境に立たされていく……悔しくて仕方がなかったことだろう。特に「印綬」を持っている人は、頭が良すぎて周りがバカに見えてしまう。戦も知らずに指示を与える淀や保守的な首脳陣に心底腹を立て、失意の中に死んでいったかもしれない。幸村の知性は羨ましいが、同じ知的レベルで話ができた人がどれほどいただろうかと考えると、頭がよすぎるのも考え物である。
〇とっても真面目な性格
幸村は、通変星の一番大事な場所、主星(しゅせい)(月柱の蔵干通変星)に「正財(せいざい)」を持っている。これは、人脈の星であり、人を大切にするため多くの人と信頼関係を築くことができる。また、真面目で家庭的な星。
大阪冬の陣で、真田丸を築き、徳川方に大打撃を与えた幸村。その幸村のもとには、家康から甘い誘いが舞い込んできた。徳川方の使者を介し、「もし徳川方に寝返れば10万石を与える」、「信濃一国を与える」等と言って何度も幸村を説得しようとした。しかし、幸村は終ぞ首を縦には降らなかった。関ヶ原の合戦で敗れ、九度山で14年間の幽閉生活を送ってきた幸村にとって、自分に働く場所を与えてくれた豊臣家に恩義を感じていたのだろう。義理に厚く、人情に厚く、真面目な性格であることが見て取れる。豊臣方からの信頼も強かったものと思うが、幸村の意見を聞き入れる余裕がなかったことは至極残念である。
〇とっても飽きっぽい性格!
幸村は、通変星に「偏印」を、十二運星に「胎(たい)」と「沐浴(もくよく)」を持っているが、この星は、飽きっぽい星ベスト3。どれか1つ持っているだけで飽き性なのだが、この3大星を全て持っている幸村は、好奇心が強く自分で自分をコントロールするのも難しかったのではと思う。
関ヶ原の合戦後、東軍についていた兄・信之と本多忠勝の嘆願により死罪を免れ、家康から高野山・九度山への蟄居を命じられた。幸村、33歳の時である。信之からの仕送りに頼って生活していたが、兵術や天文を学んだり、丈夫な「真田紐」を編んで家来に売り歩かせたりと、精力的に活動を行い、生活にもそれほど困っていなかったようだ。その後、父も亡くなり、1614(慶長19)年に豊臣秀頼の使者が協力を求めて幸村のもとを訪れたのである。そのまま九度山で生活を続けていれば、命を長らえることもできただろうに、飽きっぽい幸村にとって同じ場所で14年もたんたんと暮らすことが苦痛だったのだろうか。不利であることを承知の上で、戦に加わる道を選んだ。特に「沐浴」は「少年の星」と呼ばれ、思春期の少年のように、思い切りがよく、何をしでかすかわからない危うい星。浮気性だったり海外で放浪生活を送ったりするのが向いている。後先を考えずに思い切って事を成し遂げたくなったのだろう。
〇意外にも「石橋を何度も叩いて渡る」性格!
上で説明した「沐浴」とは対照的に、意外にも幸村はのんびり屋でなかなか行動に移せない性格も持ち合わせていたと予想される。まず、幸村は通変星に「行動力」の星を持っていない。よって、何事も熟慮した上で動いていたと考えられる。また、命式表に「印綬」と「正財」を持っているが、この組み合わせは、実行力がなく、石橋を叩いて、叩いて、叩き割って見せて、「ほら、やっぱり危なかったからやらなくてよかった」と言い出しそうなほどの慎重派。こんな異常なほど慎重な部分と、「沐浴」に代表される飽きっぽい3大星を持っている幸村は、自分でも自分がわからず、時々湧いてくる衝動のコントロールに困ったものと思う。それゆえ、14年間は九度山でおとなしくしていたが、その我慢に耐えられなくなったストレスが、大阪の陣で大爆発したのだろう。
〇とっても家庭的!でも浮気性?
「正財」は男性にとって結婚の星。結婚運に恵まれ、家庭的。一人の女性を愛し続ける誠実性を持っている。一方、上記でも説明したように、「沐浴」は浮気性の星。1人の女性では満足できず、次々と手を出してしまう。そんな一見相対する星を持っている幸村だが、その真相のほどはどうだったのだろう。
幸村の正室は、竹林院で、大谷吉継の娘と言われる。そのほかに、側室として、隆清院(豊臣秀次の娘)、堀田興重の娘、高梨内紀の娘がいたという。またさらにその他に九度山で百姓との間に1男を儲けている。今とは時代が違うため、この事実を持って浮気性と断定することはできないが、1人の女性では満足できないものの、それぞれの女性を生涯のパートナーと思い、大切にしたものと予想される。女性達にとって最高の夫だったことだろう。
今回の鑑定結果について、真田幸村十四代・仙台真田家十三代ご当主の真田徹(とおる)さんにご意見を伺った。「飽きっぽく好奇心が強い性格だったことはよくわかる。幸村は幼少期に人質として様々な家を転々としていたが、それが非常に楽しく性に合っていたものと思う。人質生活が長いと、家康のように相手に対する恨みを募らせるパターンもあろうが、幸村は人なつっこい性格だったのだろう。」とおっしゃった。
また、筆者が「現代であれば、学者が向いていると思う」と述べると、「そのように思う。戦国時代に生まれたから武将として活躍せざるを得なかったのであって、現代に生まれていたら、籠って本を読むタイプだったと思う。兄・信之も幸村について『非常に静かな性格』と話している。」とコメントしてくださった。
無念の死を遂げた幸村だったが、今回四柱推命鑑定をしてみて、本人がそれを強く望んでいたものと感じた。大阪の陣の直前、幸村は実の姉に手紙でこのように述べている。「定めなき浮世に候へば一日先は知れず候。我々のことなどは浮世にあるものとはおぼしめし候まじく候」。戦国時代が真田幸村を作ったのだ。今世生まれてきた折には、学者となって、悠々と世界を旅しながら気の向くままに研究を重ねて欲しい。しかし、今世は、どんなに相手を大切にしたとしても、浮気と不倫に厳しい目が向けられていることを強く伝える必要があろう。
古代中国で生まれた「過去、現在、未来」を予見する運命学のひとつで、陰陽五行説(いんようごぎょうせつ)をもとに、人が生まれながらにして持っている性格、能力、素質を理解し、その人の努力や経験で変わる後天的な運命までも予測することができる。
具体的には、生まれた日(生まれた年・月・日・時間)をもとに命式表(めいしきひょう)を作成し占っていく。なお、ここでは生まれた時間は鑑定に含めていない。
「国史大辞典」に記載されている生年月日を、「和洋暦換算事典」を用いて現行暦に換算し鑑定している。