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加藤清正はなぜ死んだのか?死因をめぐる憶測

戦国武将 謎の死の真相 その15

「生きるか、死ぬか」謀殺・暗殺もまた、ひとつの戦略であった戦国時代に、
多くの戦さを生き抜きながらも突然死・自刃・病死した武将たち。
にわかには信じられないその不審な死の謎を徹底検証する。

 

梅毒・ハンセン病・毒殺……飛び交う死因の噂

 加藤清正は二条城での家康との会見のあと、熊本への帰路に発熱。1ヶ月後に死去した。そして死の直後から、家康による毒殺説が飛び交った。

 そんな清正の死について、徳川幕府側の史料『当代記』は「加藤清正、浅野幸長、池田輝政が相次いで亡くなったのは、彼らの好色による腎虚(じんきょ)のせいだ」としている。たしかに彼らはみな性病に罹患(りかん)していた形跡があり、それも共に出陣した朝鮮遠征(文禄の役・慶長の役)で遊女に接した結果だとも言われる。梅毒に感染してから死に至るまでの期間は10年ほどだから、タイミングとしてはおかしくない。

 また、もうひとつの説として清正はハンセン病だったという伝承もある。これを信じるハンセン病患者たちは、清正の菩提寺・本妙寺に集まって回復の御利益を期待し、参詣者に物乞いをして過ごしたというが、これはどうだったろうか。ハンセン病であれば、同じくこの病の罹患者だったという大谷吉継(よしつぐ)(※豊臣大名。関ヶ原の戦いで石田三成に味方し、討ち死にする)同様、具足や兜などの着用に皮膚が耐えずに対策を必要とした筈だが、そんな形跡は清正には見られない。

 いずれにしても、清正の死については、一応は病気が原因とされている事には違いない。 では、なぜそれにも関わらず「毒殺説」が喧伝されたのだろうか。

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橋場 日月

はしば あきら

はしば・あきら/大阪府出身。古文書などの史料を駆使した独自のアプローチで、新たな史観を浮き彫りにする研究家兼作家。主な著作に『新説桶狭間合戦』(学研)、『地形で読み解く「真田三代」最強の秘密』(朝日新書)、『大判ビジュアル図解 大迫力!写真と絵でわかる日本史』(西東社)など。


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