帝国海軍が遺した赤レンガの街を見に行く
舞鶴にみる近代遺産を生かした街づくり
舞鶴の海軍都市としての歴史を振り返りながら、見どころを案内する。
主力軍艦にちなんだストリート名
日本海側に海軍艦艇の拠点を設置することは、帝国海軍が創設されたときからの悲願であった。舞鶴は湾口が狭く防御に適し、湾内は波が穏やかで多くの船舶が停泊できた。軍港の条件が揃った格好の地形であった。
明治22年(1889)、西郷従道と伊藤博文が軍艦で訪れ、舞鶴に第四海軍区鎮守府を置くことを決定した。しかし呉と佐世保の整備が優先されたために、舞鶴鎮守府は決定から10年以上たった明治34年(1901)10月1日に開庁した。そして初代長官には当時海軍中将であった東郷平八郎が任命された。
これ以降、舞鶴の町は海軍とともに発展していった。鎮守府の開庁とともに京都市のような碁盤目状の市街地が東舞鶴に造成された。この新市街の通りには、三笠、初瀬、朝日、敷島、八島、富士といった当時の主力軍艦にちなんで名前が付けられた。これは今もその名前がそのまま使われている。
軍港を守る舞鶴要塞は、明治30年(1897)から軍港とともに築造が始まった。湾口の東側に浦入《うらにゅう》砲台と葦谷《あしだに》砲台、西側に金崎《かながさき》砲台と槇山《まきやま》砲台が明治36年までに整備された。有事の際に陸上を防備する歩兵連隊を福知山から輸送するため、大急ぎで舞鶴線の工事が進められ日露戦争中に開通している。
また鎮守府とともに発足した兵器廠と造船廠は、明治36年(1903)に舞鶴海軍工廠となった。駆逐艦のネームシップのほとんどが舞鶴で造られているように、駆逐艦や水雷艇などの小型艦艇の建造と水中兵器が得意な工廠として発達していった。
旧軍建築を生かした街づくり
その後大正12年(1923)のワシントン海軍軍縮条約により鎮守府は要港部に、工廠は工作部にワンランク格下げとなる。余った土地や遊休施設があった舞鶴には、機関科士官を養成する海軍機関学校が関東大震災で被害を受けた横須賀から大正14年(1925)に移された。その後、昭和11年(1936)に工作部が再び工廠に昇格、昭和14年(1939)には要港部も格上げされて鎮守府が復活した。
終戦後は大陸からの引き揚げ拠点になり、66万人あまりの引き揚げ者を迎え入れた。連合国の接収が解けると旧鎮守府は海上自衛隊の下に戻り、工廠の施設はさまざまな民間企業の経営を経ながら、現在はジャパン・マリンユナイテッド舞鶴事業所となっている。
護衛艦を間近に見られる海自内の北吸桟橋や海軍記念館は決められた日に見学が可能だ。また東舞鶴と北吸地区では赤レンガ建築を生かした町づくりが進められている。フランス積みの旧魚形水雷庫が赤れんが博物館を皮切りに、5棟の倉庫が赤れんがパークとしてリニューアルされ、舞鶴の新しい観光スポットになった。