ヤマト建国にかかわる二つの日本海勢力とは? 山陰地方の意外な地理
シリーズ「ヤマト建国は地形で解ける」⑦
山陰地方の数少ない平野の一つ出雲
日田盆地という地勢上のアキレス腱を抱えた北部九州勢力は、テリトリー内にある関門海峡を利用すれば、ヤマトを封鎖できると考えただろう。そして事実、ヤマトと周辺は、干上がった。北部九州の目論み通り、鉄の過疎地帯になったのである。
ならば、ここからどうなるとヤマト建国につながっていくのだろう。なぜ、鉄器の過疎地帯に忽然と人々が集まりはじめたのだろう。「この指とまれ」をするように、一気に集まった理由はどこにあったのか。そのきっかけは何か。誰が仕掛けたのか。そしてなぜ、北部九州は出遅れたのか。この謎を、地理から解くことは可能だろうか……。
そこで今度は、日本海と山陰地方に注目してみよう。日本は稲作の文化を継承していると漠然と信じられているが、水田に適した土地は、それほど多いわけではない。近世や近代に至り、治水事業が進み、水田地帯も増えていったが、山がちで、平原があったとしても、見渡す限りの湿地帯ということが多かった。
だから、畑を耕し、アワなどの雑穀栽培も盛んに行われていたのだ。稲作だけが、古代人の生業ではなかった。そういう視点で、山陰地方の地図を改めて見やると、興味深い事実に気付かされるはずだ。
平地が少なく、海の側まで丘陵地帯なのだ。山口県から東に進んでいくと、日本海に、高台がせり出している。
島根県東部に至って、ようやく広々とした出雲平野に出る。
ただし、島根半島は古くは島で、 斐伊川(ひいかわ)が運ぶ土砂が積もって、平野となり、陸続きになった。
今は便利になって、web上で衛星写真も自由に閲覧できる。北部九州と比べて、山陰地方の平地がいかに少ないか、確かめてみればいい。
そして、出雲市、松江市、米子市、鳥取市という現在の市街地周辺が、山陰地方のめぼしい平地であることも、ご理解いただ
けるだろう。
四隅突出型墳丘墓も、この地域で盛行し、さらに越に伝わっていったのだ。
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