弥生時代の始まり、稲作文化は制圧ではなく融和によって広がった
シリーズ「ヤマト建国は地形で解ける」③
稲作を選択したのは縄文人?
弥生時代の到来と共に、稲作民が大挙して日本列島に押し寄せてきたと、長い間考えられてきた。北部九州に上陸した彼らは、あっという間に東に移動し、稲作は広まり、また、天皇家の祖は、朝鮮半島からの征服者と、漠然と誰もが信じていたのだ。
しかし、東洋史学者の江上波夫の唱えた騎馬民族日本征服説は、考古学的にはやばやと否定され、纒向遺跡に九州の痕跡がほとんどみつからなかったことから、「朝鮮半島→北部九州→ヤマト」と、征服者が移動してきた可能性も、低くなった。
残された問題は、稲作文化を携えて海を渡ってきた人たちが、日本人の祖先なのか、ということだ。
まず、炭素14年代法によって、弥生時代の始まりが、数世紀早まり、紀元前十世紀ごろだったことが分かってきて、これが大きな意味を持っていた。
これまで九州から東に、稲作民が先住の縄文人を蹴散らし制圧していったというイメージがあったが、実際には、ゆっくりとしたペースで、伝播していったことになるからだ。
北部九州の発掘が進展して、稲作伝播後の周辺の変化と動きも見えてきた。渡来人たちは、まずコロニーを形成し、稲作をはじめ、少しずつ周囲の人々も、稲作を受け入れ、融合していった様子がみてとれる。渡来人が周囲を圧倒したわけではなかったのだ。
そして、縄文時代と弥生時代の区切れ、境目がどこなのか分からないようになってきている。弥生土器に縄文的な文様が残ったり、稲作民の集落の墓に、縄文人的な骨格の遺骨が埋納されたりと、稲作民が北部九州を席巻したというかつての常識は、通用しなくなってしまったのである。
考古学者の金関恕ひろしは『弥生文化の成立』(角川選書)の中で、弥生時代の始まりを、次のようにまとめている。要約する。
(1)稲は遅くとも縄文時代後期に日本に伝わり、陸稲(りくとう)として栽培されていた。
(2)朝鮮半島南部とはかねてより密接な交流があり、縄文人が主体的に必要な文化を取捨選択した。
(3)縄文人と弥生人は当初棲み分けを果たし、在地の縄文人が、自主的に新文化を受容した。
(4)弥生時代の初期ではなく、そのあと、まとまった移住があったのだろう。
かつての常識は、やはり覆されたのだ。ただし、(4)に関しては、異論もある。
たしかに、現代人に占める渡来系の遺伝子は、相当な割合を占めている。しかし、違ったアプローチで、この謎を解いた学者がいる。それが中橋孝博だ。どういうことか、説明しよう。
シリーズ『ヤマト建国は地形で解ける』④に続く。
【『地形で読み解く古代史』より構成】