ノムさんが母を支えるため、そして大学進学を諦めた兄のためにも進みたかったプロ野球への道
野村克也さん3月毎日更新 Q2.中学3年生で野球部に入ってからの思い出を聞かせてください。
野球を続けることは母との戦い。
説得してくれた3歳上の兄。
私が暮らしていた京都丹後地方は冬が長く、室内競技のほうが盛んだったんですが、バレーボールやバスケットボール、卓球など、野球部に入る以前からさまざまなスポーツを経験していました。たとえば、バレーボールのクラス対抗の試合ではいつもチームの勝利に貢献し、一度も負けたことがなかったように、勉強が大嫌いだった反面、運動神経は悪くはなかったと思います。
実際、毎年1回開催される近郊の町対抗の野球大会には、我が町の代表として中学3年生のときから呼ばれていました。いわば超小型の都市対抗野球のようなもので、青年団の大人たちに交じってプレーするわけですから、なかなか目立った活躍はできなかったものの、町民の間では「野球が上手い少年がいるぞ」と思われていたのかもしれません。そんな私がその大会に呼ばれていつも嬉しかったのは、美味しいご飯が食べられること(笑)。貧乏生活がずっと続いていましたからね。
だから、野球を続けることは母との戦いでしたよ。母からすれば、野球イコール遊びですからね。「うちは子どもを遊ばせておく余裕なんてないんだから」と、よく叱られました。それに、野球はユニフォームやグローブ、バットなど、道具一式を揃えるにもお金がかかる。当然、母に頼んでも買ってもらえるわけないですから、当時の野球部の集合写真を見るとわかりますが、みんなユニフォームを着ているのに、私だけシャツと短パン姿なんですよね(笑)。ただ、私としては、将来プロ野球選手になって大金持ちになりたい、苦労している病弱な母を楽にさせたいという目標があるから、そう簡単に野球を辞めるわけにはいきませんでした。
そんなある日、家族3人で晩御飯を食べていたとき、母から突然こんなことを切り出されたんです。「お前は成績も悪いから、中学を卒業したら就職しなさい。お母ちゃんを助けてくれないと、この家はもうどうにもならない」と。それはもう、ショックでショックで……。就職したらプロ野球への道が断たれるわけですからね。
そのとき、母を説得してくれたのが3歳上の兄でした。私とは違い、成績が優秀で、暇さえあれば勉強しているようなタイプだったのに、「これからの時代、高校ぐらい行かないと絶対に苦労する。俺は大学に進学するつもりでいたけど、卒業したら就職するから、代わりにこいつを高校に行かせてやってくれ」と言ってくれたんですよ。そのおかげで私は進学することができたんです。
だからこそ、母を楽にさせるだけではなく、大学進学を諦めた兄のためにも、どうしてもプロ野球選手にならないといけない。そんな気持ちをより一層強く持つようになったんですよね。