ナイル河とピラミッドの関係から導き出せる! 河内王朝は征服王朝ではない!?
シリーズ「瀬戸内海と河内王朝を地理で見直す」⑪
戦後史学が根底から覆される?
仁徳天皇の時代、河内周辺は、水害に苦しみ、普段も湿地帯や泥海だったのだ。それを、必死に改善しようとしていたことが分かる。そして、この事業と同時進行していたのが、巨大前方後円墳の造営なのだ。ならば、目的は、やはり治水事業と関わっていなかっただろうか。
これは余談だが、エジプトのピラミッドはなぜ造られたのか、永遠の謎とされてきた。ピラミッドは紀元前二六〇〇年ごろから約千年にわたって建設されてきた。大昔は墓と信じられてきたが、王の墓は別の場所に造られていたし、事実ピラミッドの中から被葬者(遺骸)がみつかっていない。
ならばと、神殿説、天体観測施設説、公共事業説などが飛び出したが、決定力に欠けた。そこで日本人の、しかもピラミッドの門外漢が、画期的なアイディアを提供している。
まず、視角デザイン学の高津道昭は、ピラミッドのほとんどがナイル川の西岸に、川に沿って造られていること、砂に埋もれたピラミッドも発見されて
いることから、「テトラポット」「霞堤(洪水の水を一度遊水池に誘導し、水が引いたら、川にもどす堤防)」と指摘した(『ピラミッドはなぜつくられたか』新潮選書)。この考えは、斬新で、かつ整合性がある。
河川技術の専門家で建設省出身の竹村公太郎は、高津道昭の考えをさらに発展させた。ナイル川の東岸には山岳地帯が連続しているが、西側にはリビア
砂漠が続いている。だから、ひとたびナイル川が溢れると、砂漠に流れ込み、ナイル川の水は砂に吸われなくなってしまう。河口デルタの干拓にナイルの運んでくる土砂はどうしても必要で、エジプト人は、堤防を築くのではなく、「からみ(搦)工法」を用いたのではないか、というのである。ナイル川の西側に、ピラミッドを一列に造ることによって、氾濫した土砂は、ピラミッド周辺に、「絡みつき、まとわりつく」。土砂がここに留まり、長い砂の堤防が伸びていくという寸法だ(『日本史の謎は「地形」で解ける 文明・文化篇』 PHP文庫)。これまでに無い斬新な発想で、おそらく、正解だろう。
河内の巨大古墳群造営の目的も、治水事業を疑ってみたい。
今でこそ、古墳群は海からかけ離れた場所に位置するが、当時は河内湖がすぐ目の前まで迫っていたのだ。水害多発地帯であり、干拓する必要があっただろう。だから、難波の堀江が掘削(くっさく)されたのだ。
森浩一は『巨大古墳の世紀』(岩波新書)の中で、河内の巨大古墳は、単独で存在したのではなく、水路でつながっていたといい、さらに周濠は、治水工事で獲得した技術や知識が土台にあったと指摘する。その上で巨大古墳の被葬者たちを「治水王」と呼び、次のように述べる。
河内の巨大古墳を出現せしめたひとつの遠因が、長年にわたる河内湖との戦いであったことは認めてよかろう。つまりピラミッドにたいするナイル河の役割が、巨大古墳では河内湖とその関連河川であった。
この指摘は、大きな意味を持っている。河内王朝は征服王朝だったという戦後史学界の掲げてきた常識を、根底から覆すからだ。使い物にならなかった河内湖周辺の湿地帯を、豊穣の大地に変身させたのだ。その目的を知って、民も嬉嬉(きき)として労役に就いただろう。そして天皇の権威づけだけが、前方後円墳造営の目的ではなかったことも、これで分かるのである。
(『地形で読み解く古代史』より構成)