「憲法9条を守るぞ!」「オ~!」の何が間違っているのか?
白熱講義! 憲法改正①
「憲法9条を守るぞ!」は大間違い
「憲法9条を守るぞ!」
(オ~!)
「守るぞ!」
(オ~)
「守るぞ!」
(オ~)
毎年5月3日の「憲法記念日」に、日比谷公園周辺をこうしたシュプレヒコールを声高に上げて行進している集団をよく見かける。
これこそ憲法を理解していない典型例である。誤解のないように言うが、ここでの論点は9条云々ではない。「憲法9条を守るぞ!」の「守るぞ!」が問題なのである。正しくは、「憲法9条を守らせるぞ!」だ。さらに正確を期すならば、「国家権力に憲法9条を守らせるぞ!」である。
明治維新と憲法
それはどういうことなのか。基本的な話からしよう。
おそらく「六法」という言葉は誰でも聞いたことがあるだろう。六法とは、対等な私人間の取引(※1)に関する決まりを定めた「民法」、商いをする会社同士の取引に関する決まりを定めた「商法」、犯罪と刑罰を定めた「刑法」、犯罪が生じた際の裁判手続きを定めた「刑事訴訟法」、民法や商法で紛争が生じた際の裁判手続きを定めた「民事訴訟法」、そして、それらの筆頭に置かれる「憲法」の総体である。(※1) 売買、贈与、結婚などのこと。
そもそも六法の成り立ちは明治維新にまでさかのぼる。それ以前の江戸幕府時代の日本は、300以上もの藩の連合体だった。したがって藩ごとに、藩主が立法者として慣習法を規範とした藩令を定め、奉行を通して裁きをしていた。
ところが、明治維新で一気にひとつの帝国に統合されることとなる。強固な国家権力、つまり天皇の権威と天皇が率いる官僚と軍隊のネットワークによって、国家が国民を管理するために、メジャーな6分野の規範、「六法」が制定された。
ちなみにこの「六」には深い意味はない。当時の主要な法領域がたまたま6つあったというだけであって、今なら「国際法」や「環境法」等の領域も含まれること(「八法」?)になる。
「六法」が勘違いのはじまり
こうして1セットで総体される「六法」だが、じつは前者の五法と憲法とは、根本的に機能が異なる。
他の五法(民法、商法、民事訴訟法、刑法、刑事訴訟法)は、国家の権威を背景に、国家が国民に対してあるべき法的基準を示し従わせるもので、国家の権威によって国民自らを縛る「自己統治」機能である。他の法律も同様であり、民主主義のひとつの証とも言える。そして、法律は国民が選んだ政治家たちによって作られる。
しかし憲法だけは、実権力を持たない「主権者・国民」が、権力者たち、すなわち政治家とその他の公務員に対して、権力を濫用させないように管理する唯一の例外法である。ゆえに、憲法を改正する場合は、政治家たちの採決だけでなく、国民による直接投票が必要なのである。
この意味は大きい。本来、政府とは、国民の幸福追求の環境を整えるための枠組みで、国家の独立と平和、国民の自由を守る機関である。つまり、国民のためのサービス機関と言える。そして、その際にそのサービスを提供する担当者が公務員である。
国家の権力を預かる公務員(もちろん政治家も含む)だが、当然地位の高い人は個人として権力を行使する。仮に地位が高くなくとも集団として国家機関を司る。例えば、巡査。街の一介のお巡りさんとみれば権力はそれほど強そうでもないが、組織としてみると、一転、「警察」という威圧的な権力組織となる。
つまり公務員とは、国や地方自治体の名で権力を行使する資格が与えられた人たちである。一般人が持てないピストルを所持できるし、国家予算を執行することもできる。個人の先天的な能力を超えた力を持っているのが公務員なのだ。「絶対的な権力は絶対的に堕落する」という古来の格言があるが、これは真理を突いている。繰り返しになるが、人間は完全ではない。だから人が権力を持ったとき、必ずしも正しく行使されるとは限らないのだ。
したがって、私たち国民は、国家(権力者)が国民のためにきちんとサービスを提供し、権力を笠に暴走していないか、常に国家を管理する必要がある。それができるのは唯一「主権者・国民」だけである。そして国民が国家を管理するための規範となるマニュアル(手引書)、それが「憲法」である。
この憲法の本質が理解されていないことが、一番の問題である。憲法が、他の五法と同列、または少し上の法であるように思わせる「六法」という言葉が、憲法の特殊性を見誤らせているのかもしれない。
(『[決定版]白熱講義! 憲法改正』より構成) 後編に続く。